わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

「三国志」@東京国立博物館(9月16日まで)

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三国志の展覧会が上野の東京国立博物館東博)であるから見てきた。

上の写真は中国では古代から軍船としてあった楼船の模型(No.51)だ。宋の時代以降に編纂された軍学書に記載された図をもとに作ったものらしい。宋というと西暦960年に成立したから三国時代からは600年以上後の時代だ。よって上記のような精密な船が三国時代にあったか疑問だが、文献の記載からは基本的構造は変わっていないようだ。

「楼」とは望楼という言葉があるように遠くを望める背の高い建物だ。それを船の上に載せたから「楼船」となる。

なぜ軍船としてこんなものを作ったか。

三国志展の解説に「魏と呉は相手を威圧するため無理をして大型の楼船をつくったらしい。」とある。案外そんなところに真実があると思う。

実用的には高いところから矢を射かけられる利点はある。

しかし、重心が高くて安定性が悪い。少しの風でひっくり返る。おそらくこのままでは海では使えない。揚子江などで使えるくらいだろう。

呉の皇帝の孫権揚子江で新造の楼船に乗ったところ風が出てきたので船長があわてて船を戻した。孫権が「度胸がないな」と船長を笑ったところ、船長は「皇帝であるあなたを危ない目にあわせるわけにはいかない。」と応えた。孫権は黙ってしまった。

またある時、孫権が船で敵陣視察をすると猛烈な数の矢で船が傾いた。孫権は船の向きを180度変えて別の側面で矢を受けさせ、傾きが解消したところで悠々と帰った。

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(上の写真は三国志展より)

もっと実用的な船(貨客船 No16)の土製模型も展示されている。

戻って上の楼船には帆(マスト)がある。三国時代の船にマストがあっただろうか?

楼船ではないだろうが、マストのある船が存在していたことが呉の行政文書である竹簡にある。当時まだ紙は貴重品だったから、竹の板に文字を記した竹簡が行政文書になった。

三国志展展示の竹簡(No.102)には

呉の嘉禾2年(西暦233年)の日付とともに船の装備について

  マスト長さ六丈(17m弱)

  上横棒長さ六丈(14m強)

  下横棒長さ六丈(14m強)

  舵

  碇

  ロープ

とある(括弧内は解説による)。

マストの長さが17mだから、船の長さもそのくらいあったに違いない。

つまり、三国時代の呉の船にはマストがあった。

それどころか碇もあった。碇があるということは、船を接岸する必要がないことを意味する。たとえば敵地の魏の沿岸に行ったときに、魏の陸兵の襲撃を恐れる必要がない。

最後のロープというのはマストの操作に使ったか、碇を下すのに使ったか、わからない。たぶんどちらにも必要だ。

 

このように、西暦233年の頃、呉および魏ではかなり大きな船を作っていた。

このような大きな船を作るには、水漏れを許さない基礎的な造船技術が必要だ。

当時の日本(倭)にはまだその技術はない。

呉と魏はそうした技術をすでにもっていた。特に呉はそうした技術を使って海で使える船をつくった。

そうして、魏の沿岸部を侵略し、

南方へ行って侵略と交易をおこない、

台湾にまで行った。