中公新書「日本史の論点ー邪馬台国から象徴天皇制まで」(2018年)という本がかなり読まれているようで、最近ようやく市図書館から順番待ちで借りる事ができた。
その第1章論点1でいきなり著者が
「水行二十日」 は帯方郡から投馬国までの日数(以上19ページ)
を私案として述べている。
こういう説は初めて聞いた。
そこで、魏志倭人伝の時代の、帯方郡から北九州までの所要日数を改めて考察する。
まず、魏志倭人伝から、行程の部分だけを抜書きする。三国志からそのまま抜書きなので旧漢字の羅列なのを容赦してほしい。;
1.從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
2.始度一海千餘里至對馬國
3.又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
4.又渡一海千餘里至末盧國
5.東南陸行五百里到伊都國
6.東南至奴國百里
7.東行至不彌國百里
8.南至投馬國水行二十日
9.南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
10.自郡至女王國萬二千餘里
普通の解釈では、不彌國から投馬國が「水行二十日」で、投馬國から邪馬壹國が「水行十日陸行一月」だ。
上記に出てくる「郡」は帯方郡だ。帯方郡は実はどこにあったかわかっていない。しかし楽浪郡はピョンヤン近くだとほぼ決定している。帯方郡はその南だとしてまあソウル近辺と仮にしておく。
Googleマップの距離の測定を使って、ソウルの外港である仁川から釜山まで沿岸を船で行き、その後3つの海を渡って北九州に着くまで、総計で1070kmになった。
当時の船で一日にどのくらい進めるだろうか?
まず昼間で目的地が見えないと進めない。
錨などで海上に船を止める技術は当時あったかどうか怪しいから、夜は必ず港に入る。
風力もある程度使えただろうが、近代のような航海術はまだないだろうから、主として櫂や艪を使う人力に頼る。
干潮満潮つまり潮の満ち引きに注意しなければならない。例えば潮が満ちてくる時に出航すると逆潮になってほとんど進めない。
実は角川春樹さんが野生号Iという四世紀頃の埴輪にある船を再現させて仁川から北九州まで漕ぎ渡っている。1975年の事だ。[1]
[1] 角川春樹「わが心のヤマタイ国」(1975, 1978文庫本)
その本によると6月20日から8月5日まで47日かかっている。著者は一日20kmの予定でいたようだ。そして予定が未達になりそうだと他の船に曳航してもらったらしい。著者自身も単独航行なら100日以上かかると言う。
以上より、帯方郡から邪馬台国・投馬国まで「水行十日陸行一月」・「水行二十日」で行けるとは思えない。
上記私案は現実的でないようだ。
1日だけなら、丸木舟で日本海を渡った先生のように1日55kmを漕ぎ切ることができるかもしれない。実際朝鮮半島から北九州までは、そうした漕ぎ方をする必要があった。しかしそれを20日も続けられない。
最後に「唐六典」(唐時代の百科事典)の記事を紹介する。
「馬は日に70里、歩及び驢(驢馬)は50里、車は30里、」
「重船の流れを遡るには河(黄河)は日に30里、江(揚子江)は40里、その他45里」
「空船河40里、江50里、余水60里」
「重船、空船流れに従う河150里、江100里、余水70里 とせよ」
上は距離を日数から決める決め方だ。1里は400mとすると、1日歩いたら50里つまり20kmとする。馬に乗っても1日28kmだ。
黄河で積み荷の重い船を遡ると1日12kmだ。逆に黄河を下るときには1日60kmだ。揚子江では川の流れが緩いから遡るときは16km、下るときは40kmだ。
空船でその他の川では上り1日24km、下り1日28kmだ。
以上はみな川での話だ。海では距離の測りようがないから上にはない。
しかしまあ、川での類推から、静かな海では(そんな海はほとんどないけれど)1日20-30km進めると考えられる。
以上よりまとめると、1日20kmで休みなく漕ぎ進むと53日くらいで帯方郡から北九州に到着できるけれど、実際は休みを取らねばならないし、潮の流れを見計らう必要があるし、天候によっては出航を控える事もあるから、53日の最低2倍はかかる。
つまり帯方郡まで3-4カ月だ。そこからさらに遼東半島、山東半島を経て、黄河または陸路で洛陽に着くにはプラス3-4カ月かかりそうだ。
トータルで、北九州から魏の都洛陽まで、早くて半年下手すれば1年近くかかるかもしれない。