三国志は魏蜀呉の三皇帝が並立した面白い時代を記述したものだ。
その中に魏志倭人伝(正確には三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝の中の倭人条)がある。
陳寿さんの立場から見聞した倭人と倭国について想像してみたい。
陳寿さんは西暦233年に蜀の国で生まれ、297年に65歳でなくなったらしい。晋書に陳寿列伝がある。
卑弥呼が魏に初めて朝貢するのが西暦238年だから陳寿さんはその時まだ5歳だ。
しかも、魏とは対立する蜀に生まれているから、倭女王卑弥呼の魏への朝貢などは到底知らずにいただろう。
その後の数回の倭の朝貢も知らずに育っただろう。
やがて蜀に仕官したけれど、その蜀が西暦263年に滅亡してしまったから、陳寿さんは30歳で失職してしまった。
西暦265年に司馬炎が魏から帝位を奪って(形式上は禅譲)西晋が成立して後に、陳寿さんは西晋に仕官できたらしい。
倭国が西晋の成立を祝って翌266年に朝貢したがその時陳寿さんが仕官していたかどうかはわからない。
というわけで、「陳寿さんの立場から見聞した倭人と倭国」と言った割には陳寿さんと倭の間の直接的オーバーラップはほとんどない。
直接的オーバーラップがほとんどないけれども、魏志倭人伝の描写は実に生き生きとしている。
このギャップはどこからくるだろうか?
おそらく三つの可能性が想像できる。
2)魏の使節の話を聞いた別の史家の文章をそのまま掲載した。
個人的には、3)であることを想像したい。
けれど、実際は2)である可能性が高いだろう。当時既に「魏略」とかが存在する。
当時は著作権などは気にしないで、他人の文章を断りなしに引用できただろう。
とにもかくにも、陳寿さんにとっては、倭女王卑弥呼の朝貢は同時代の出来事だったと思う。
当時の中国人にとって東の辺境の地の倭からの朝貢はどのくらい注目されただろうか?
良くはわからないが、少なくとも魏の国にとっては敵対する呉を牽制する国として倭に期待したようだ。
それは、「親魏倭王」という称号に表れている。このように称号は他にはインドを領有するクシャナ朝と言われる大月氏に与えられた「親魏大月氏王」しかない。
つまり倭が大月氏と同格とみなされた。
しかし、その後の経過は、倭国内での内乱で卑弥呼が亡くなるなど、おそらくは魏の期待に沿うものではなかった。