わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

魏の使節は卑弥呼に会ったか?

魏志倭人伝によると、西暦238年の女王卑弥呼朝貢に応える形で、2年後に

梯俊等が皇帝の手紙(詔書)と印綬をもって、倭國を訪れ倭王に会った。漢文では

梯俊等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王

とある。その後にも倭王が魏の使節に感謝しており、また再び倭王が魏に朝貢使節を送ったとある。

ここで「倭王」とは倭女王卑弥呼だろうか?

読んでいるとどうもそのようには受取れない。

卑弥呼を指すときには「倭女王」とか「女王」と明言している。ところが魏の使節の訪問の記述部分でのみ突然「倭王」という語を使うのだ。

どうも「女王」と「倭王」を区別しているように、私には思える。

ここの「倭王」は卑弥呼を補佐している弟のことではないか。

 

本来、魏の使節は、皇帝の詔書をもって倭国へ来た。その皇帝の詔書のあて先は倭女王卑弥呼だ。魏の使節は当然に倭女王卑弥呼に会う必要がある。

会ってないならその使節は命令不実行で死刑になってもおかしくない。

ところが、何らかの事情で卑弥呼には会わなかった。何らかの事情とは想像するしかないが、例えば、

1.卑弥呼が容易に行けない程遠い所にいた。大和地方にいればかなり遠い。

2.卑弥呼が神に仕える身であって会えず、政治一般を取り仕切る弟が九州まで迎えに来た。

3.技術的な理由:例えば、魏の使節は面子上魏の大きな船で来たがそれが関門海峡を越えられずに邪馬台国まで行けなかった。

等の事情があったかもしれない。

魏の使節邪馬台国やその手前の投馬国にも行っていないらしいのは、邪馬台国と投馬国の戸数だけが推量の「可」(べし)を使っている点からも想像できる。

 また、邪馬台国と投馬国への道程だけが「里」でなく日数表示なのもそこまで行っていない事を示唆するかもしれない。

 

しかし、倭女王卑弥呼に会っていないと言ってしまうと、魏の使節は死刑になりかねない。かと言って史家として陳寿さんは使節が女王に会ったと嘘は書けない。そこで、婉曲に「倭王」という表現を使って「女王」と区別した、と想像する。