わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

知らないと永遠にわからないままでいることもある。

「主よ、主よ。なんぞ我を見捨てたもうや」(エロイ、エロイ。ラマ・サバクタニ

キリストは十字架の上でこう叫んだ。

この語が長く私にはわからなかった。

高校の英語の先生も「さすがのキリストも苦痛に耐えられなかったのかな?」と疑問符を付けていた。

ただ単に苦痛と絶望からキリストはこう叫んだのか?

そうではないのでは?

そうした疑問がいつまでも残った。

 

私の疑問を解いてくれたのは遠藤周作さんだった。

「イエスの生涯」において、遠藤周作さんは言う。

「『主よ、主よ。なんぞ我を見捨てたもうや』は旧約聖書詩篇22編の冒頭の語である。

そして詩篇22篇は、冒頭の悲しみの訴えから、

『わたしは汝のみ名を告げ・・・人々のなかで汝をほめたたえん』という神の賛歌に転調してゆくのである。」

エスは、詩篇22篇の冒頭の語を言うことにより、最終的に神を讃えたのだ。十字架上で、苦痛に苛まれながら。

 

ここでの教訓は、詩篇22篇を知らなければ、私の疑問は永遠に疑問として残った、ということだ。

知らないと永遠にわからないままでいることもある。

 

魏志倭人伝だけを読んでいては永遠にわからない事もある。

例えば、何故卑弥呼は西暦238年(239年説もある)に魏に使節を派遣したか?

その時に帯方郡公孫淵の支配から脱して魏の直轄地になったから、倭から魏の洛陽までの直通ルートが開いたからだ。

 

魏志倭人伝だけでも十分面白いが、そこからおもむろに範囲を広げていくことで、今までわからなかった部分がわかってくる。それがまた面白い。