卑弥呼の使者が洛陽に到ったのは西暦239年(景初3年)というのが通説だ。
魏志倭人伝が238年(景初2年)と言っているにもかかわらず、通説は239年だ。
理由は簡単で238年には楽浪・帯方郡を支配していた公孫淵が魏と戦っている最中だからこの年はあり得ず、戦乱が収まった239年に行っただろう、というものだ。
裏付けは、梁書に景初3年(西暦239年)に公孫淵が滅ぼされた後に始めて卑弥呼が遣使朝貢し、親魏王とし金印紫綬を仮綬したとある、からだ。
至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢魏以爲親魏王假金印紫綬
以上より西暦239年が通説となった。そして三国志の魏志倭人伝の238年の記述は間違いであるとされた。
例えば、吉川弘文館の「日本史年表」(1995年)では次のようにある。
「239年、倭女王卑弥呼、帯方郡に遣使。また魏都に至る。魏の明帝、卑弥呼を親魏倭王に封じ金印紫綬を授く」
但し、魏の明帝は西暦239年1月1日に既に亡くなっているから、上記「魏の明帝」は「魏帝」と読替える必要がある。
ここで、ちょっと考えて欲しい。
もしもこの単純な誤りをしたとしたら、
公孫淵が滅びるのが8月であり、卑弥呼はその前の6月に遣使しているから、これはおかしいと容易に気付きそうだ。
さらに、西暦238年であれば魏の明帝に拝謁するが、239年ならば明帝が亡くなっているため次の若年の皇帝に拝謁するから、情景が大きく異なる。あの魏志倭人伝に記載された卑弥呼への返答の手紙も明帝からのものでないということになる。また、明帝の喪中でありながら拝謁するようなことがあるだろうか?
陳寿さんにとって卑弥呼の使者はほんの20ー30年前の出来事だ。そこで起こった物事の時間的空間的関係性を十分把握していたと思う。そこに誤りがあれば修正しただろう。
200年後に、三国志には裴松之が詳細な註をつけている。この単純な年号の誤りがあったなら、裴松之が註をつけてもおかしくない。裴松之はしかしここには註をつけていない。
400年後に成立した梁書では、公孫淵の滅亡と卑弥呼の遣使との時間的空間的関係性を十分に理解できずに上記のように「公孫淵の滅亡後に卑弥呼が遣使した」と解釈した。
結論として、卑弥呼の使者は西暦238年に洛陽に到ったとするほうが時間的空間的関係性を考慮すると正しいと思う。
では、どのような時間的・空間的関係性があっただろうか?それについては以下の記事を参照していただきたい。
aki104.hatenablog.comaki104.hatenablog.com