わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

卑弥呼の使節の船

西暦238年、魏が公孫淵勢力を帯方郡楽浪郡から追い出して魏の直轄地になったと同時に、卑弥呼は魏に使節を送った。 

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 実際には次のようであったと考える。

公孫淵の支配する帯方郡楽浪郡の役所にたまたま卑弥呼使節がいた時に、魏の水軍が来て一気に帯方郡楽浪郡を制圧し直轄地に戻した。帯方郡楽浪郡の人々にとっては地方政権でしかない公孫淵よりも魏皇帝の直轄の方が好ましかったから、この制圧はほぼ平和的にできた。

帶方太守に任じられた劉夏は、たまたまいた倭の女王卑弥呼使節に魏の皇帝に朝貢する事を強く勧めた。劉夏には、魏の皇帝明帝が倭の朝貢を喜ぶとの確信があった。

というのは、当時倭は韓半島の南の大海中の島々にありその位置は敵対する呉の東(當在會稽東治之東)にあると中国人は考えていたから、呉に対する牽制となる。

劉夏にせっつかれて卑弥呼使節は、取るものもとりあえず大した贈り物も持たずに魏の洛陽に向かった。
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 そして、その年のうちに皇帝に拝謁した。

 

ところで、卑弥呼使節はどんな船で行ったのだろうか?

楽浪郡帯方郡までは船で行っただろう。当時の倭人は丸木舟またはそれに近い舟しかないから、少なくとも行きはそれを使った。

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楽浪郡帯方郡から洛陽まではどうだろう?

楽浪郡帯方郡から沿岸沿いに遼東半島突端に至る。そこで島伝いに渡海して、山東半島に行く。ここまでは船を使う。陸路を使うとひどく大回りになるし、まだ公孫淵が籠っているから、治安も悪い。

山東半島から洛陽までは、黄河を遡るか、陸路でも行ける。

個人的には、黄河を遡る工程も含めて、倭から魏の首都洛陽まで全行程を倭人が自らの丸木舟で走破したと思いたい。その方が劇的効果がある。

卑弥呼使節に応答する魏の使節は2年後に九州に来る。2年後と遅くなったのは、呉の船が海上に出没した事と、魏の皇帝明帝の崩御による応答使節の準備の遅れが原因だろう。

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 応答の魏の使節はどんな船を使ったろうか?

魏帝国の面子からして、倭の丸木舟に魏使節が便乗する事はあり得ないだろう。そうすると魏の海船を使っただろう。

魏の海船は、丸木舟に比べるとずっと大きい。という事は重い。という事はスピードが出ない。ただ帆を持っているから、順風で風向きがぴったり一致した場合、帆を揚げて風力を使えば速い。

魏の海船で果たして対馬海峡50kmを含めて3つの海を渡る事ができただろうか?

おそらく、好都合な風が吹くまで辛抱強く待っただろう。

魏の使節が来るという事で付近の倭人たちも一致協力しただろう。例えば夜になっても到着できない時は、烽火をあげて目的地が見えるようにした、といったソフトの工夫もやっただろう。

ともかく、魏の船は、3つの海(韓⇒対馬対馬壱岐壱岐⇒北九州)を渡り切った。

魏志倭人伝には、そうした苦労がすべて「渡海一千里」の語に凝縮している。