1982年7月24日朝4時40分:15kgの黒曜石を積込んで、丸木舟が隠岐島から本土に向けて漕ぎ出した。
乗組むのは5人の小学校の先生方だ。4人が漕ぎ最後尾の1人が丸木舟の方向を制御する。
幸いなことに50km先の本土が見える。
予め海流の影響を考慮して目的方向を斜めに取る。
6時30分:海上にて4人のメンバーチェンジ。
8時:風速10m、波高も1m高。遠目にはいかにも海に呑まれそうで危うく見えるが、丸木舟は安定している。海流の影響が少ないことがわかり、進路を30°変更する。
14時30分:平均3ノット(1.852kmx3=5.556km)の速度。
15時30分:5人メンバーチェンジ。
16時30分:あと4kmだが中々岸に近づけずに焦りも出る。
17時23分:七類港入港
全行程56kmを12時間43分で漕ぎ切った。時速にして4.4kmだ。
丸木舟の長さは6m、直径70㎝だ。
以上、「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達」という本から引用した。
本といってもISBN番号も付与されていないし、アマゾンでも出てこないし、国会図書館にも収蔵されていない、個人出版のものらしい。幸い島根県立図書館と佐賀県立図書館にあったので私も近所の図書館にお願いして取寄せて見ることができた。
最近ヤフーのオークションに出ている。
この先生方は縄文時代に隠岐の黒曜石が交易によって日本各地にもたらされた事を実証しようとした。縄文時代には丸木舟しかないから、当時と同様の丸木舟を作りそれで隠岐から本土へ日本海を渡海しようとした。
完成した丸木舟の操作法では随分苦労したらしい。とにかく船が真直ぐ進まない。左右どちらかに蛇行してしまう。その問題は公園の池のボートを漕いでも分かる。私などが漕ぐとボートは必ず左右どちらかにぶれてしまって真直ぐ進まない。さんざんトライして疲れた頃最後尾の人が櫂を方向舵として使った。そうしたら途端に舟が安定して前進し始めた。
そのような試行錯誤の後に、56kmの大海原を13時間弱で漕ぎ切ることができた。
メンバーチェンジはしたけれど、人力だけでこれだけの距離の海を1日で渡った事に意味がある。
そこで得られた知見は、
1.丸木舟は時速4.4km出た。人の歩く速度とほぼ等しい。
2.丸木舟は風速10mの海上でも安定していた。ただし横波を食らうと安定性が悪くなった。学者の中には丸木舟では渡海できないと断言する人もいるが、実際に渡海できた。
3.海流の影響は思ったほどない。おそらく舟に影響する表層の流れは海流よりもその時の風向きに依存するだろう。
4.丸木舟の蛇行を止めるために最後尾の人が櫂で方向を制御する必要があった。しかしオリンピックのカヌー競技ではそうした制御係はいないから、単に先生方が舟の制御法を知らなかっただけかもしれない。
卑弥呼の時代でもまだ韓半島と北九州の交易には丸木舟が使われていた。従って、縄文時代を想定した先生方の実験航海はそのまま、魏志倭人伝の時代の交易を再現するものとしての価値がある。
魏志倭人伝の時代には、丸木舟というかなり危険な小舟で韓半島から北九州までの3つの海を渡海する必要があった。
渡海方法は、まず韓半島から対馬まで51kmを日中に一気に渡る。
対馬を海岸沿いに南端まで行く。
壱岐へ向かって49kmを日中に一気に渡る。
壱岐の北端から南端へ海岸沿いに行く。
松浦半島へ21kmを5時間程で渡る。
その時に危険を最小限にするために倭人達(舟に乗る人、出発地の人、目的地の人)は共同して、ありとあらゆる知恵(ソフトパワー)を働かせたに違いない。
例えば、暖かい時を選ぶ、日の長い季節を選ぶ、天候をよむ、出航は目的地が見える時を待つ、潮の満ち干をよむ、数艘で行ってリスクを減らす、夜が近づくと松明などであらかじめ対岸に連絡する、対岸では目印の松明をかざす、などだ。以上私の勝手な想像。
先生方はまずミニチュア版丸木舟「からむし1世号」を作ってみた。航海に使ったのは「からむし2世号」だ。これで終わったわけではないらしい。ネットで調べると「からむし4世号」もある。韓半島から日本列島への実験航海を企画したらしいけれど、その結果を見つけることはできなかった。