卑弥呼の使者は西暦238年6月に魏に着いた。しかしその返礼の魏の使節は遅れて西暦240年となる。
なぜ遅れたか?
実は、魏に敵対する南の呉の水軍が西暦239年3月に遼東半島を攻撃して住民を捕虜にしている[1]。
[1] 三国志呉書呉主伝 (三月..之遼東擊魏守將..虜得男女)
おそらく呉の水軍は襄平城に立てこもる公孫淵を遠路はるばる助けに来た。しかし背後の楽浪・帯方を制圧された公孫淵が西暦238年8月にたった2か月の攻撃によりあっさり滅んでしまっていた。
呉の船は間に合わなかった。
むかっ腹を立てた呉の将軍は遼東を侵略して捕虜を捕まえて帰った。
ところで、遼東半島、山東半島は魏の支配地だ。そこまで呉の軍船が遠征できるのは呉の船が優れていて、海に浮かぶ呉の船を魏が攻撃できなかったからだろう。
以上のように西暦239年中は魏の使節が通る航路上に呉の船が出没して危なくて通れなかった。
というわけで、魏の返礼の使節団は翌西暦240年に、呉の船がいない事を確認して、やっと倭に向かった。
通説では卑弥呼の使者は魏志倭人伝に記す西暦238年ではなく西暦239年6月に魏に行っているとする。
しかし呉の水軍が同年239年3月に遼東を侵略しているから、通説はむしろ考えにくいと思う。
それに対する反論は、「いや渤海湾の北側の陸路を使った。」というものだ。その場合は、陸路で楽浪郡または帯方郡まで行ってそこから船に乗り換えることとなる。随分遠回りになる。
私としては、一貫して船を使ったと考える。