高句麗好太王碑
好太王碑に記載がある最後の戦いは西暦410年の東扶余の制圧だ。 東扶余はもとは高句麗の始祖である鄒牟王の属民だったが、叛いたから討った、とある。 随分古いことを持出す。東扶余から見れば言いがかりと言える。 好太王自ら軍を率いたから、好太王にと…
帯方地方へ進出した倭を掃蕩してから3年後の西暦407年に、高句麗の好太王はようやく軍を百済に向けた。 百済が誓いに反して倭と通じてから8年の歳月が経った。 7年前には新羅救援のために朝鮮半島南端までの大遠征をやったし、百済を侵略するには十分…
新羅救援の大作戦から4年程は割と平穏だったらしい。 しかし、西暦404年に倭が不法にも帯方地方に侵入した。 原文は以下だ。 十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界 ここで「不軌」という言葉が気になる。王健群さんの解釈では「法制に基づかないで事を運ぶこと…
さて、高句麗好太王は西暦400年にようやく倭と戦うこととなる。 その前年に百済が誓いに反して、倭と通じた。 好太王は立腹したに違いない。しかし平壌まで巡回したに過ぎない。戦闘の準備ができていなかった。 そこへ新羅の使いが来た。「倭人が新羅の地…
高句麗好太王の第3戦(西暦398年)は2年前の百済侵略の引続きみたいなものだ。 www.aki104.com 今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。 第3戦の文は短いから全文を記す: 八年戊戌教遣偏師…
好太王の第2戦目は百済侵略であってそこに「倭」がちょっとだけ顔を出す。 少し長いが第2戦部分の初め3行の碑文を示す。碑文は例によって王健群さんの釈文を用いる。 1)百残新羅舊是属民由來朝貢 (百済[百残としたのは蔑視した。]新羅はもと高句麗の…
ようやく、好太王の戦歴をたどる。初戦は碑麗だ。 好太王碑には 永樂五年歳在乙未王以碑麗不婦□人躬卒往討 とある。好太王の5年つまり乙未(西暦395年)の年に碑麗が(高句麗)人を返さないから王自ら討った。 好太王は18歳で即位したから、即位後5年…
西暦400年前後、つまり好太王の頃、高句麗の本拠は集安にあった。好太王碑と好太王の墓とされる大王陵もそこにある。高句麗の名は、漢書地理志にあるから紀元前から中国に知られている。 それに対して、百済はソウルあたりに根拠地があったらしい。三国志…
上の写真に示すように、1500年間好太王碑は、現在の中国と朝鮮の国境の川沿いの集安市に立っていた。 高さ6.4mとでかいから目立たないわけないと思うが、1875年まで忘れ去られていたらしい。 今はガラス張りの建屋で保護されている。 いびつな4…
高句麗好太王碑についての本をいくつか読んだから、ここに紹介したい。 なぜ高句麗好太王碑かというと、卑弥呼の時代の次に倭が登場するからだ。 以下年号だけを拾ってみる。 西暦238年に卑弥呼が魏に朝貢して以来何度か魏と往来があったが、 西暦266…