わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

邪馬台国と卑弥呼と崇神天皇

卑弥呼の使者が洛陽に到ったのは通説通り西暦239年だろうか?いいえ陳寿さんのいう西暦238年だ。

卑弥呼の使者が洛陽に到ったのは西暦239年(景初3年)というのが通説だ。 魏志倭人伝が238年(景初2年)と言っているにもかかわらず、通説は239年だ。 理由は簡単で238年には楽浪・帯方郡を支配していた公孫淵が魏と戦っている最中だからこの年はあり得ず…

卑弥呼の頃の人口分布

さらに卑弥呼の時代の倭の人口を地域ごとに考えたい。 幸いなことに、小山修三さんの調査では、地域ごとの人口まで産出している[1][2]。 [1] 小山修三著「縄文時代」中公新書 1984 [2] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」 それによると 北九州 40500 人 南九州 64…

倭の総戸数15万戸について

昨日、西暦200年頃の、遺跡から推量した日本全国の人口が60万人に対して、魏志倭人伝に登場する国の総戸数15万戸が、まあ桁が合っているし、どちらも10倍くらいの誤差もありうるから納得できる、とした。 今回は、15万戸についてもうすこし考えよう。 15万戸…

卑弥呼の時代の日本の人口は60万人だった

西暦200年の人口は約60万人。725年には450万人。紀元前900年には7万6千人。 上図をじっくり見ていただきたい[1][2]。 [1] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」 [2] 小山修三著「縄文時代」中公新書 横軸は年、縦軸は人口だけど対数目盛であることに注意する。 一見…

「親魏倭王」の印影がある!??

昨日ネット上で奇妙な物を見た。卑弥呼が受取った「親魏倭王」の金印の印影だ。 GoogleCromeで、”親魏倭王 印影” と打込むと画像検索結果欄に印影がズラズラ出てくる。 「親魏倭王」の金印は見つかっていないのになぜ印影が存在するのか? そのあたりの事情…

卑弥呼はなぜ生口を魏の皇帝に送ったのか?-2

aki104.hatenablog.com 私の個人的印象だが「生口」という言い方が人を単なる物とみなしているようで好きではない。とは言うそばで「人口」と普通に使うから、言葉に対する慣れはある意味恐ろしい。 まず、「生口」は人間だろうか? 後漢書巻86南蛮西南夷列…

卑弥呼はなぜ奴隷(生口)を魏の皇帝に送ったのか?

魏志倭人伝では卑弥呼からの贈り物の中に「男生口四人女生口六人」をある。生口10人を贈っている。 生口は奴隷と考えられている。 ここがどうにも腑に落ちない。 奴隷など贈られて喜ぶものだろうか? 当時は戦いの戦利品として奴隷はいくらでもいたはずだ。…

倭の人口は多かったのか?

倭の人口は周辺地域と比べて多かったのだろうか? 中国の史書から数字を取り出してみる。戸数表示でまず見る。 魏志倭人伝では倭の国々の合計戸数が、15万戸だ。 同じ三国志で、馬韓(後の百済の地域)の戸数は十数万戸とあって倭と同等だ。 弁韓辰韓(任那…

倭の人口はどのくらいか?

中国の史書は、課税の基本となるせいか戸数を随分気にしている。魏志倭人伝でも倭の国の戸数の表示があるから抜き出す。 地域 戸(家)数 倭 對馬国 1000 戸 一大国 3000 家 末盧国 4000 戸 伊都国 1000 戸 奴国 20000 戸 不彌国 1000 家 投馬国 50000 戸 邪…

卑弥呼もって死す(卑彌呼以死)

魏志倭人伝に 卑弥呼もって死す(卑彌呼以死) とある。ここでなぜ単に「卑弥呼死す」と言わずに「もって(以)」を加えたか? そういう疑問が出る理由は、 卑弥呼が狗奴国の男王卑彌弓呼と素より不和だった; 遣塞曹掾史(中国の役職)の張政が詔書(皇帝の…

紀年銘鏡はたったの14枚

総計で4000枚ある[1] という古代銅鏡のうち年号の記載のある紀年明鏡は日本ではたった14枚しか出土していない。そのリストが上図だ[2]。 [1] Wikipedia 「三角縁神獣鏡」 [2] Wikipedia 「銅鏡」より抜粋 例えば、上図の和泉黄金塚古墳出土の紀年銘鏡には 景…

卑弥呼の銅鏡-2

上図はPublicDomain 画像を編集。東京国立博物館 in Wikipedia 「銅鏡」 上図に「景初三年」という文字が見える。 見えないという人は左半分真ん中より少し上に四角で囲われた「三」の字を見つけて欲しい。その字の左斜め下、図左下隅に四角で囲われた「年」…

卑弥呼の銅鏡‐1

(上図)Public Domain 画像を編集、東京国立博物館 in Wikipedia「銅鏡」 上記図は蟹沢古墳出土の三角縁同向式神獣鏡の一部だ。 上図の時計の1時の位置から3時の位置までに 「始元年陳是」 とある。欠けた12時の位置には「正」の字があったと類推して、…

卑弥呼の贈り物

西暦238年の卑弥呼の贈り物は生口10人と布2枚という寂しいものだった。 余程急いでいて贈り物を集める余裕がなかったに違いない。帯方太守に新任したばかりの劉夏も急がせただろう。むしろ魏の中央をよく知っている劉夏が主導したかもしれない。 内容よりも…

卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)に朝貢した

景初2年(西暦238年)1月、司馬懿と毌丘儉(かんきゅうけん)が遼東へ出発した(魏本隊)。同時に別動隊を船で密かに(魏潜軍)楽浪・帯方へ向かわせた[1]。 [1] 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 密かにというのはもちろん公孫淵に知られないようにとの意味だが…

卑弥呼の使者は景初2年か3年か

魏志倭人伝では卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)の6月に来ている。 一方、梁書では景初3年(西暦239年)とする。いわゆる学会の通説も景初3年とする。 なぜ景初3年が多いかと言うと、その時には独立勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が…

倭から洛陽へ

魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。 その行程はすべて船だろうか? わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。 まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに…

韓半島から倭へ;3ステップの渡海

図のように魏の使節は3つの海を渡って、韓半島から倭の本拠地へ来た。魏志倭人伝ではそれぞれを「渡海千里」と表現する。 実際にGoogleマップで最短距離を測るとそれぞれ、51km、49km、21kmとなる。港から港ではプラス数キロ増えるだろう。 以前に言ったよ…

三国史記に卑弥呼登場

朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代の歴史を記した「三国史記」の新羅本記に卑弥呼が登場する。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)[1] [1] Wikipedia 「倭・倭人関係の朝鮮文献」 から引用した。 …

崇神天皇:ミマキイリヒコイニエの命

崇神天皇という漢語的言い方は後世の創作であって、 古事記・日本書紀では「ミマキイリヒコイニエの命」という。 音に出して読んでみると、ミマキ-イリヒコ-イニエ と分かれそうだ。 今回「イリヒコ」に着目する。 「ヒコ」は「彦」だろう。そうすると「イリ…

年已長大無夫婿

魏志倭人伝に卑弥呼についての記述に 年已長大 とある。これを普通に解釈すると、既に年老いている、と考える。一般にもそう解釈されている。 ところが張明澄さんは「誤訳だらけの邪馬台国」で「長大」とは大人になった事をいう、とする。そうしてそのような…

やまととももそびめの命(夜麻登登母母曾毘売命)について

前回に書いたように、日本書紀に「やまとととひももそびめの命」が崇神天皇に助言する或いは「神の言葉を伝える」場面が有ると言った。実際2回ある。詳しくは日本書紀で確かめていただきたい。古事記にはない。 日本書紀では「天皇姑倭迹々日百襲姬命」と天…

「卑弥呼」は「やまととももそびめの命」か?

天皇名 古事記 崩御年 神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化 崇神 318 or 258 垂仁 景行 成務 355 仲哀 362 神功 応神 394 仁徳 427 履中 432 反正 437 允恭 454 安康 雄略 489 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 527 安閑 535 宣化 欽明 敏達 584 用明 587…

「卑弥呼」は「ヒミコ」か

張明澄さんが著した「誤訳だらけの魏志倭人伝」に 「卑弥呼」は古代中国語では、「ピェ・ミアー・ハッ」と発音するとある。 つまり「ピミハ」らしい。 特に最後の「呼」を「コ」と発音しないのは、日本人学者も悩ませたらしく、どこかの本で言い訳がましい事…

會稽・東治の東

もう一度魏志倭人伝の行程の一部を示す。 (4) 又渡一海千餘里至末盧國 (5) 東南陸行五百里到伊都國 (6) 東南至奴國百里 (7) 東行至不彌國百里 (8) 南至投馬國水行二十日 (9) 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 上記のように、投馬國と邪馬台国への行程…

邪馬台国は南の海の中にある?

前回、邪馬台⇒ヤマト⇒大和と類推したけれど、未だ違和感があると言った。 その一つが魏志倭人伝の行程を単純に読解くと邪馬台国が南の海の中にある事となる点だ。そこで行程の記述を抜き出してみる。 なお原文はWikipedia ”三国志”から引用する。 (1) 從郡至…

邪馬台はヤマト?

「魏志倭人伝」に以下の文がある。 南至邪馬壹國女王之所都[1] (南に行くと邪馬壹國に至る。女王の都。) [1] 三国志魏書烏丸鮮卑東夷列伝倭人条(三国志列伝。Wikipediaより) 「魏志倭人伝」は正確には「三国志魏書烏丸鮮卑東夷列伝倭人条」 「邪馬壹國」…