わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

船と馬

台湾から与那国島へ丸木舟で漕ぎ渡った。2019年7月7日-9日

2019年7月7日から9日にかけて、丸木舟で、台湾から与那国島まで漕ぎ渡った。 というニュースがあった。[1] [1] http://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/ 漕いだ距離は225km、時間は45時間10分だから時速5kmだ。 丸…

和船の水を漏らさぬ技術

前回に続いて和船の基礎技術について記す。www.aki104.com 大洋を航海できるような、大きな木造船を作るには、何枚もの板を剥いで(互いに側面でくっつけて)水を漏らさぬ一枚板のように加工する技術が要る。 さもないと、海水が船内に漏れ込んで船が沈没し…

倭が大型の構造船・凖構造船を作るための基礎技術

以前、卑弥呼の時代の倭の船は丸木舟だった、という記事を書いた。 www.aki104.com 同じ頃、中国の魏や呉では、現在の木造船とほぼ同じく、板材をつなぎ合わせて作る大型の構造船・凖構造船があったらしい。 www.aki104.com しかし、この板材をつなぎ合わせ…

夷州(台湾)と中国の関係

三国志の孫権伝に記載がある夷州は台湾らしい。実際に渡海して夷州まで行って数千人を連れてきた。これが西暦230年だ。呉は台湾まで行く大きな船をもっていた。 aki104.hatenablog.com ところがその後台湾に関する記述が中国の史書から消える。 Wikipedia「…

烽火:呉の光通信システム(三国志孫権伝より)

三国志孫権伝に古代の光通信システムの記載がある。 長江(揚子江)の沿岸沿いの高台でのろし(烽火)を揚げて急を知らせた。 連絡網を次々と経由して伝わるから非常に速い。一日で万里を行った(一夕可行万里)。 長江の辺境に敵が攻めてきたとしても、1日…

卑弥呼の使節の船

西暦238年、魏が公孫淵勢力を帯方郡・楽浪郡から追い出して魏の直轄地になったと同時に、卑弥呼は魏に使節を送った。 aki104.hatenablog.com 実際には次のようであったと考える。 公孫淵の支配する帯方郡・楽浪郡の役所にたまたま卑弥呼の使節がいた時に、魏…

三国志呉書呉主伝(孫権伝)から中国の船を想像する。

南船北馬という。 中国では南部は降水量が多くて河川や湖が多く主要な交通機関は船だ。北部は比較的乾燥して馬が主要な交通機関になる。 交通機関は戦いの時には兵器にもなる。三国志の時代には、魏では馬が主要兵器であり、呉では船が主要兵器だった。 西暦…

赤壁の戦いから中国の船を想像する

魏志倭人伝つまり卑弥呼の時代には、倭人は大海(対馬海峡、他)を渡る船として丸木舟しか持っていなかったらしい。 aki104.hatenablog.com そうして、丸木舟でもって大海(隠岐ー島根)を渡り切った例がある。 aki104.hatenablog.com では、卑弥呼の時代に…

1982年:縄文の丸木舟で日本海を渡った先生方がいた

縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録 1982年7月24日朝4時40分:15kgの黒曜石を積込んで、丸木舟が隠岐島から本土に向けて漕ぎ出した。 乗組むのは5人の小学校の先生方だ。4人が漕ぎ最後尾の1人が丸木舟の方向を制御する。 幸い…

卑弥呼の頃の船

卑弥呼の頃に、韓半島ー対馬ー壱岐ー北九州ルートの交易があった。しかし交易のためには3つの海を渡らねばならない。どうやって渡ったか? その質問の答えてくれる面白い記事をなんと国会図書館のレファレンス共同データベースにみつけた。 crd.ndl.go.jp …

倭の地に馬はいない

下記記事中にある「乗駕牛馬」の駕は「現代中国語では、「駕」に、牛馬に農具や車をつけて引かせる、また御する、操縦するという意味があります。」というありがたいコメントを頂いた。 そこで、馬について再度考える。aki104.hatenablog.com 三国志烏丸鮮卑…

卑弥呼はなぜ生口を魏の皇帝に送ったのか?-2

aki104.hatenablog.com 私の個人的印象だが「生口」という言い方が人を単なる物とみなしているようで好きではない。とは言うそばで「人口」と普通に使うから、言葉に対する慣れはある意味恐ろしい。 まず、「生口」は人間だろうか? 後漢書巻86南蛮西南夷列…

倭と呉は直接交易できたか

三国志の時代に、倭は(魏を差置いてその南の)呉と直接交易できたか? なぜそのような疑問をもつかというと; 1.古事記に「呉」は出てくるが「魏」は出てこない。 2.そもそも弥生時代の米は中国南部(つまり呉の地域)から来ている。これも交易の結果だ…

呉の孫権は夷州(台湾)を探させた

呉の孫権は衛溫と諸葛直に夷州・亶州を探させた(西暦230年)。両将軍は夷州から数千人を捕まえてきた[1]。 ここで夷州は台湾とされる。亶州はよくわからない。 台湾は中国本土から見えるだろうか? 昨日の記事で富士山が262km先の八丈島の高台から見えた事…

八丈島から富士山が見えるー距離262km

まず、海上から富士山が見える範囲を考えてみる。 上式で、R=6400km、H=3776m(富士山の高さ)、h=1.6m(人の身長)をm単位をkm単位にそろえてから代入すると距離は224kmになる。 これは伊豆諸島方面では御蔵島より遠く、八丈島より近い。 ここでネットで探…

倭から洛陽へ

魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。 その行程はすべて船だろうか? わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。 まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに…

韓半島が見えるか?

古事記・日本書紀で「海を渡って新羅を征服せよ」との神のお告げに対し、仲哀天皇は「海の向こうにそんな国は見えないではないか」と反対した。神に逆らった仲哀天皇はあえなくお亡くなりになった。 羅針盤もまともな時計もない古代の航海において、目的地が…

韓半島から倭へ;3ステップの渡海

図のように魏の使節は3つの海を渡って、韓半島から倭の本拠地へ来た。魏志倭人伝ではそれぞれを「渡海千里」と表現する。 実際にGoogleマップで最短距離を測るとそれぞれ、51km、49km、21kmとなる。港から港ではプラス数キロ増えるだろう。 以前に言ったよ…

古事記に出る馬

卑弥呼の時代に馬はいなかった。 魏志倭人伝に「倭の地には馬も牛もいない」とある。 一方、古墳時代には馬もいたし、鞍もあって馬に乗る事もできた。 では、いつ頃馬が登場するか? 普通には応神天皇の頃と言われている。古事記では応神天皇の崩御年は干支…

其地無牛馬

魏志倭人伝に 其地無牛馬 (倭の地には牛も馬もいない) とある。卑弥呼の時代に倭の地(北九州)には牛や馬はいなかった、と三国志の著者陳寿は断じている。 今は馬だけ考える。 本当に馬はいなかったのか? どうもいなかったらしい。当時の遺跡で馬の骨が…

再び人力の船

前に、人力だとせいぜい時速4-5kmしか出せないと言った。 本当にそうだろうか? 私が時速4-5kmと言ったのは先に示した学校の先生方の貴重な実験による[1]。 [1] 「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録 からむし会編」 隠岐から島…

倭人の船に帆があるか?

卑弥呼の時代に倭人は韓半島と北九州の間で交易していた、と魏志倭人伝にある。 その船に帆はあっただろうか? はっきりとはわからない。 当時の墓の石の壁に帆らしい柱が書いてあったりするらしい。 日本書紀には神功皇后が新羅征伐に行ったときに帆のある…

古代ギリシャの船を発見

古代ギリシャの船を黒海海底で発見したそうだ。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181024/k10011683461000.html 2400年前の船らしい。どうやって2400年前とわかったのか?おそらく炭素14による測定だろう。 三つ着目したい点がある。 第一にマストがあ…

乖船南北市糴

魏志倭人伝には「南北市糴」という語が2度出てくる。 この意味は南北へ行って(主に米を)交易するということらしい。 一度目は対馬で、二度目は壱岐で、それぞれの島の島民が船に乗って「南北市糴」している。 という事は、韓半島と北九州の間で交易があっ…