わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-6 百済威嚇(西暦398年)

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高句麗好太王の第3戦(西暦398年)は2年前の百済侵略の引続きみたいなものだ。

 

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今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。

 

第3戦の文は短いから全文を記す:

 

八年戊戌教遣偏師観帛慎土谷因便抄得莫斯羅城加太羅谷男女三百餘人自此以来朝貢論事

 

この文の中に百済(百残)という文字はない。

厳密に言うと百済を侵略したかどうかはわからない。しかし、「莫斯羅城」や「加太羅谷」という地名は百済らしい。また前後の文脈から百済に対する行為とみていい。

今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。

今回の軍は百済北辺を侵略しただろうが、軍の根拠地はどこだろうか?

碑には何も書いていないから推測でしかないけれど、おそらく昔の楽浪郡平壌辺りに駐屯する軍が動いたのだろう。

戦果としては「男女三百餘人」だ。あまり大したことはない。城も「莫斯羅城」を1つ獲ったか獲らないかだ。

これからも、遠路はるばる集安からやってくるような大規模な戦いとは言えそうもない。

 

ただ「自此以来朝貢論事」(これより以来(百済)が朝貢し命令に服した。)とあるから、おそらく百済王は震えあがって、高句麗朝貢し臣下の礼をとった。

百済にとっては、領土の北辺を高句麗軍がうろついているわけだから、(2年前の戦いで58城も獲られたトラウマもあるだろうし、)ものすごく心配だろう。

高句麗朝貢するぐらいでこの心配がいくらかでも解消するならいくらでも朝貢する。

 

以上が西暦398年の戦いだ。

 

同じ頃、古事記によれば倭では仁徳天皇の治世だ。

仁徳天皇は国内の治世に努めたとの記事はあるけれど、外交に関する記事は古事記にはない。

ただ、枯野という船の記事がある。この船は巨大な木を切り倒して作った、とある。

さすがにこの頃は卑弥呼の頃のような丸木舟ではないだろうが、それでも大きな木を必要とする、準構造船だったろうか?
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また、朝鮮半島三国史記には、西暦397年に百済の国王が倭国と友好関係を結び太子の腆支人質として送ったとの記述がある。

百済はこのように倭と友好関係を持ちながら、高句麗に臣下の礼を取らねばならなかった。二つの強国に挟まれた国の悲哀と言える。

高句麗好太王碑-5 -百済侵略(西暦396年)

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好太王の第2戦目は百済侵略であってそこに「倭」がちょっとだけ顔を出す。

 

少し長いが第2戦部分の初め3行の碑文を示す。碑文は例によって王健群さんの釈文を用いる。

1)百残新羅舊是属民由來朝貢

百済[百残としたのは蔑視した。]新羅はもと高句麗の属民で朝貢していた。)

2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民

(しかるに、倭が辛卯年(西暦391年)以来渡海し百済□□新羅を破って臣民とした。□□は解読できない2文字。)

3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻

(そこで、好太王の6年・丙申年(西暦396年)に王みずから水軍を率いて百済軍(残國軍)を討伐し南に攻めた。)

 以上が第2戦の初め3行だ。その後に獲った城の名前がずらずら書いてある。

 

ここで、1)行から見る。

1)百残新羅舊是属民由來朝貢

百済新羅がもとは高句麗の属民であり朝貢していた、というのは本当だろうか?

高句麗百済領を奪い取った事を正当化する理由付けにすぎないように見える。

ただ、高句麗は西暦313年に楽浪郡帯方郡に進出している。西晋の楽浪・帯方への支配力が弱くなった隙をついた。

それより前の三国志魏書東夷伝(この中に魏志倭人伝も含む)には百済新羅の前身である馬韓辰韓が楽浪・帯方に朝貢しているとある。

従って、楽浪・帯方を手中にした高句麗は、百済新羅朝貢を受ける立場にあるべきだ、という理屈は成り立ちうる。

 

好太王碑では百済は「百残」として一貫して蔑視している。王健群さんによると、「残」は悪い字であり、良い字である「済」の反対語だそうだ。つまりわざと反対語を用いて貶めた。

昔、前漢を滅ぼした王莽が高句麗を攻略した時に、「下句麗」と名前を変えさせた。

それをやられた高句麗は、同じ行為を百済に対して行った。

 

次に、2)行は有名な「辛卯年条」だ。

2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民

この1文をもって、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、とする日本の学者が多くいた。

特に、日本に最初に「拓本」(正確には拓本でなく紙を碑に押し付けて字の輪郭を押し出し、輪郭に沿って墨を塗って字を浮き立たせたもの。碑の表面の凸凹が大きくて拓本を取りにくい時に使う。墨本といったりするらしい。)を持ち込んだ酒匂という人が旧日本軍のスパイだったことも、その後の混乱に拍車をかけた。

余談だが、酒匂本は墨本制作時に誤字が少し発生した。しかし、数ある「拓本」のなかで字が最もくっきりしていて見栄えがいい。酒匂スパイは余程金を積んだに違いない。

第二次大戦後に韓国・朝鮮の学者は、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、というような事はあり得ない、と反発した。

ある学者は、好太王碑に石灰が塗布されているのを見て、旧日本軍が好太王碑の碑文を捏造した、とまで言った。いわゆる石灰塗布作戦だ。これは現在否定されている。

こうした議論はいずれも、当時出回っていた拓本を基にしていた。

そこで、中国人の王健群さんが実地に赴き好太王碑の碑文を半年ほどかけて解読した。

その時、石灰を塗布したのは、地元の拓本づくりを職業とする住民だとわかった。表面をできるだけ石灰で平らにして拓本を取りやすくした、ということらしい。

その、石灰は1年ももたないために現状はかなり剥げ落ちているらしい。

 

辛卯年(西暦391年)以来倭が進出した、とある。

この頃の朝鮮半島における倭の動きの分かる資料は他にあるだろうか?

かなり後世の記述であって真偽性は割引く必要があるが

古事記(西暦712年成立)や

日本書紀(西暦720年成立)と朝鮮半島

三国史記(西暦1145年成立)がある。

 

古事記には、神功皇后新羅征討の記事がある。

仲哀天皇崩御後に神功皇后新羅を征討した。古事記では仲哀天皇崩御年が壬戌の年(西暦362年)だから古事記の記述に基づくならその後数年にあった。

征討とはいっても、金銀などの宝が目的らしく、大船団で新羅に押し寄せて、新羅の王を屈服させたら、さっさと帰っているようだ。

日本書紀も同様な記事だが、神功皇后卑弥呼に比定するという120年(干支で言うと2回り。同じ干支は60年毎に現れる。)の間違いを犯している。

 

朝鮮側の資料として、三国史記新羅本紀には、西暦364年に「倭の兵が大勢できた。多数で直進してくるのを伏兵が討って敗走させた。」とある。

また同じく新羅本紀に、西暦393年には、「倭人がきて金城を5日間包囲した。」とある。

さらに新羅本紀にやや後年だが、西暦408年に

倭人対馬を本拠にして新羅を攻撃する準備をしている。新羅国王が兵站線を逆襲しようと考えたが、部下に『大海を渡って他国を攻撃するのは危険だ』といさめられて止めた。」とある。

この記事で面白いのは、倭の本拠は対馬であって、朝鮮半島ではない点だ。倭は朝鮮半島に根拠地をもっていない。

しかし、魏志倭人伝では、倭の北岸は狗邪韓國であって、朝鮮半島倭人が住み着いていた。150年後にもおそらく住み着いていただろうが、そこは本拠地にはなりえなかったと読める。

このように、倭が新羅を攻撃した記事はいくつかあるが、領土的野心はあまり見られない。

 

百済との戦いに関する記事はないけれど、倭が新羅のみならず百済へも進出している可能性は十分ある。百済とは平和的関係が多かったかもしれない。

 

以上のように、好太王の頃に、倭は朝鮮半島南部に出没していた。

 

魏志倭人伝の頃に交易をしていた倭人はそれから150年経って、人口も増え、船や武器の技術も進化して、より攻撃的になっていたかもしれない。

ただ、倭人はやはり海の民だ。基本的に船で海から攻撃して不利になると海へ戻る。陸の戦いはあまり得意ではない。

 

倭が朝鮮半島南部に出没するには、上記に示したように西暦391年以前からだ。

それなのに、なぜ好太王碑では西暦391年以来と限定したか?

詳しくはわからないが、西暦391年が好太王の即位の年であることが意味がありそうだ。

好太王碑は好太王の事績を顕彰する。より話をドラマチックにするために、好太王の在位中に倭が攻めてきた、としたかったかもしれない。

 

 次に、倭が渡海して百済新羅を破り、臣民とした、とある。

この「渡海」という語は魏志倭人伝では、朝鮮半島から対馬へ大海を渡った時に使われた。

好太王碑の「渡海」は逆方向に対馬から朝鮮半島へ渡った事を意味するようにも見える。

しかし、朝鮮半島の北の端に本拠を持つ好太王がわざわざ1000キロも離れた半島南端の倭の動きを把握するだろうか?

「渡海」とは単に海の方からやってきたという意味だと思う。

 

倭は海の道を自由に使って突然に百済新羅の住民を襲った。

襲われた住民は分が悪い時はとりあえず屈服するしかないだろう。

しかし、そうした屈服は、高句麗から見ると、百済新羅が裏切ったと見えただろう。それが臣民とした、という表現に見える。

裏切ったから高句麗としては攻める理由ができた。

 

 そうして3)に至る。

3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻

倭が西暦391年に進出して以来5年経って西暦396年にようやく好太王が自ら動き出した。

ここで「水軍」を率いて百済軍(残国軍)を討ったとある。

「水軍」とは何だろう?騎馬を得意とする高句麗軍がなぜ「水軍」を用いたのか?

ここの「水軍」とは川で使う舟を言うのかもしれない。当時陸上の道はそれほど多くはないから、軍を移動する時にできれば川を使うのが便利だった。例えば、集安から平壌さらに南のソウルへ行くときに、まず鴨緑江を使っただろう。

 

高句麗軍の武器は馬だから、馬は外せない。馬を運べるほど大きい舟が当時既にあったと想像したい。

大きいといっても、例えば矢切の渡し[1]の舟程度で馬が運べる。実際昔は矢切の渡しの賃料が「1人3文。馬5文。」と記録にある。川であればそんなに大きな舟でなくても馬が運べる。

[1]  https://www.matsudo-kankou.jp/yakirinowatashi/

また、ここでわざわざ「水軍」と記したのは高句麗にとって舟が当時の最新兵器だったから、とも考えられる。

 

そして攻めたのは百済だ。

新羅は攻めていない。また倭も攻めていない。

なぜ百済か?

実は高句麗百済の土地と人を欲しかった。

好太王よりも150年前だが、三国志魏書東夷伝にあるように百済つまり昔の馬韓は人口が高句麗の5倍くらいあった。

人口が多いということは、作物が多く取れることを意味する。そうした土地と人を獲るのが目的だった。

好太王百済の城と村を次々と奪っていく。

そこには、倭との戦いは一切ない。倭が進出したから攻める、というのは単に理由付けでしかない。

本音は百済の土地と人を奪うことだ。

 

一方、新羅高句麗は侵略しなかった。なぜか?

まず遠い。新羅の首都は慶州だからほぼ朝鮮半島の南の端だ。そんなところまで遠征したくない。

次に新羅は人口も多くない。だから侵略する旨味がない。

むしろ遠交近攻策を用いて新羅を手なずけて百済を討ちたいと考えた。

 

以上で、好太王の第2戦目の前半部を終わる。

 

後半部は簡単に済ます。

好太王が、百済の国城(おそらく首都)に迫った。

たまらず百済は迎え撃った。

好太王百済が刃向かった事に赫怒して、川を渡って城を包囲した。

残主(百残の主:百済王を蔑んで言った。)は困惑し、男女奴隷一千人と細布千匹を差出し、奴客となると誓った。

好太王はこれを許した。

この戦いで好太王百済の北辺を侵略して、58城・700村を獲得した。

 

百済の首都を包囲までした。首都はおそらく今のソウルに近いところにあった。

しかし、首都を陥落させて百済を滅ぼすまでには至らなかった。

軍も長距離の遠征で疲弊してきたし、58城も獲得し、戦利品も多くえたから、とりあえず今回はこれで終わらせよう、といった気分だったろう。

 

以上が西暦396年の百済侵略だ。

 

西暦396年の百済侵略の中で「倭」という語は「辛卯年条」に一度しか出てこない。

倭が百済を臣民としたから百済を攻めた、という理屈だが、そこに倭との戦いは記載されていない。あくまで高句麗百済の戦いだ。

ここから、倭というのは百済を攻めるための理由付けでしかなくいわゆるトリックスターtrickster.日本語では引き立て役?)だという人もいる。

トリックスターは言い過ぎだと思うが、他方で「辛卯年条」の一文のみを取上げて倭が朝鮮半島の南を支配していたというのも言い過ぎと考える。

 

倭はあくまで海の民であって、春になると朝鮮半島沿岸に現れて、交易をしたり、時に暴力を使って物を奪ったりするけれど、冬が近づく前にさっさと帰ってしまう。冬の対馬海峡を渡海するのは海の民の倭人でも危険だった。

 

百済の王は、倭と仲良くすることで、倭の略奪から身を守ろうとした。

しかし、そうした行為は高句麗にとっては背信行為と考えられた。

そこで高句麗が怒って攻めてくればそれに屈服する。

百済にとっては、倭が来れば倭に従い、高句麗がくれば高句麗に屈服するのが生き残る方法だったと思う。

ただ百済は、どちらかといえば倭に友好的だった。

それは、高句麗の真の意図が百済を呑込む事だから、いやでも倭に頼らざるを得なかった。

 

以上で西暦396年の好太王百済侵略を終わるが、

最後に日本書紀応神天皇の治世の記事に触れる。

古事記には以下の記事はない。

古事記記載の崩御年では応神天皇の治世は西暦362年から西暦394年だ。

 

応神天皇の治世の時に、高麗(こま:高句麗の事)の王から朝貢の使者が来た。その手紙に「高麗のきみ、やまとのくにに教ふ(教える)」とあった。中国語に堪能な天皇の太子:「うじのわきのいらつこ」がそれを無礼だとして手紙を破った。

 

この記事から当時の外交の様子が推し量れる。

第1に、高句麗とは戦いながらも外交もあった。戦争しながらでも使節の交換はした。それが当時の外交の常識だった。

例えばすこし後世の例だが、新羅は唐に朝貢しいかにも従順そうにしながら、他方で唐の朝鮮半島の占領地を奪い取っていった。

これを面従腹背と非難もできるが、小国が大国の傍らで生き延びるための術だったともいえる。

第2に「教える」という上から目線から推察すると、高句麗は倭を見下していた。だからやまとの太子が怒った。

一方、日本書紀朝貢という語から、倭の側からは高句麗を見下している。

つまり、倭と高句麗は、(少なくとも国内的には、)お互いに相手を見下す関係と言える。

外交とはそうしたものかもしれない。

 

その名残は現在でも国と国との条約名に残る。

例えば日米安保条約は、日本では

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

と日本を先にいい、アメリカでは

「Security Treaty Between the United States and Japan」

と言って、the United States を先に言う。

この国の順が逆になると、ほんの少し国と国の関係がよくなるか、とあらぬ事を思いつく。

高句麗好太王碑-4 碑麗討伐(西暦395)

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ようやく、好太王の戦歴をたどる。初戦は碑麗だ。

好太王碑には

永樂五年歳在乙未王以碑麗不婦□人躬卒往討

とある。好太王の5年つまり乙未(西暦395年)の年に碑麗が(高句麗)人を返さないから王自ら討った。

好太王は18歳で即位したから、即位後5年で22歳だ。王としての初めての戦いだったろうか。

碑麗がどこにいたか今となっては推測でしかわからない。襄平道(襄平に通じる道)を通って帰ったとあるから、集安から北西に進撃したと考える。

戦果は、「三部洛六七営」を破ったとある。獲得した牛馬羊は数えきれない程という。

ここで「破った」というのは単に破壊したのではなく、戦いに勝って獲得したとの意味のようだ。後の戦歴で城を破る、との表現が出てくる。

今回は城は獲っていない。それほどの戦果でもなさそうだ。

帰りは「遊観」しながら意気揚々と集安に戻っている。

初めての戦いとしては上々のものだったろう。

最初の戦いは、好太王の腕試しみたいなものだったかもしれない。

 

ところで、この頃の倭はどうなっていたか。

古事記には、所々に天皇崩御された年が記載されている。

古事記に記載の崩御年は割と信頼してもいいと私は考える。

それに対して日本書紀に記載の年号は允恭天皇より前は当てにならない、と思う。

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古事記によると応神天皇が西暦394年に崩御されている。上記好太王の碑麗討伐の前年だ。

次は仁徳天皇が即位された。実際にはすんなりと即位ではなく、古事記によると母違いの弟の宇遅能和気郎子(宇治のわきのいらつこ)と天皇位を譲り合っていたらしい。譲り合っていたと古事記にはあるが、天皇位をめぐる争いがあったのだろう。

古事記によれば、仁徳天皇崩御が西暦427年だ。

好太王崩御が西暦413年とされる。

つまり、高句麗好太王が戦っているころは、日本では仁徳天皇の治世だった。

 

しかし、好太王碑には、「倭」「倭寇」「倭賊」という語しかなく、「倭国王」とか「倭王」とか、ましてや倭国の王の名前などは出てこない。

新羅の王は「寐錦」であり、百済の王は「残主」と蔑称されているが一応好太王碑に登場する。

好太王碑の倭には顔が見えない。

 

一方日本側の古事記には高句麗と戦ったなどという記述はまったくない。

一体、好太王の戦った倭とは何者だろうか。

わからないままに、好太王の戦歴を次回から順繰りに見ていく。

 

台風一過 ー19号が過ぎ去った

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東京湾を望む

 10月13日、静かな朝を迎えた。千葉市美浜区では快晴、富士山も見える。

台風19号はここからは去っていった。

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 しかし、テレビで見ると、関東、長野、東北と広範囲に爪痕を残していった。

主に雨による洪水被害が多い。

台風15号に比べると、すこし西寄りのコースをたどったため、15号で痛めつけられた千葉県では、「15号程酷くはなかった」というのが率直な感想だ。

実際、台風19号が千葉市に最も近づいたのが、12日午後9時だったが、その時でも風の音はどこか遠くで鳴っているようで切迫感がなかった。

とはいえ、停電情報では、27万件の停電があり、そのうち10万件近くが千葉県だった。やはりダブルパンチが効いた。

 

気象庁は今回の台風19号に関しては、事前に雨の被害を強調していた。

そしてその通りになった。

昔、30-40年前に比べて、気象予報の精度が実に上がってきたのを感ずる。

何が違うのか、部外者には正確にはわからないが、気象庁のシミュレーションの精度が上がったのだろう。

テレビで、今後の雨量とか風向き・風速の予報を流すが、それがよくあたっている。

大規模なシミュレーション(コンピュータによるモデル計算)が最近ようやく可能になってきたのだろう。

今はもうシャットダウンしたようだが、地球シミュレータというシステムがあった。

そのように地球全体のシミュレーションができるようになりつつある。

こうしたシステムを用いて是非とも地球全体の気候のシミュレーションを精度よくやってもらいたい。

 

ところで、ラグビーワールドカップ日本対スコットランド戦は開催される事に決まった。

こうした時こそ、災害に負けない姿勢を持ちたい。

素晴らしい判断だと思う。

既に停電そして竜巻 -台風19号がやってくる

一夜明けた10月12日、8時過ぎ、NHKの朝の連続テレビドラマを見ている最中に、停電となった。

まだ、台風はやってこないのに早すぎる、とうろたえた。

昨日に十分な準備をしたはずだが、一瞬何をしていいかわからない。

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 わからないままにランタンを取出して、バケツとか鍋とかに水を貯めた。

既に風呂桶に十分な水を貯めているにもかかわらずだ。

台風15号の経験がフラッシュバックする。

 

10分位で電気が来た。

NHKの朝の連続テレビドラマは終わっていた。

ともかく、よかったあ。

東京電力の中央送電指揮系統(そんな部署があるかどうかは知らない)に再度感謝する。

 

iPadで調べると、千葉で48万戸が停電とある。

同時期に市原で竜巻があったらしい。

停電と因果関係があるかもしれない。

台風15号で脆弱になった送電系がやられたかもしれない。

うかうかしているうちに静岡県で停電とのニュースだ。

 

台風19号はまだ太平洋上にいる。

千葉では、まだ雨も風も強くない。

予報進路は非常に狭いから、こちらにやってくるのは間違いないだろう。

ピークは今日夜だ。

 

びくびくひやひやしながらやり過ごすしかない。

嵐の前の静けさ -台風19号が明日やってくる

台風19号が明日(10月12日土)やってくる。

今回の台風は一時、915ヘクトパスカル、瞬間風速75mの「猛烈な」台風だった。

アメリカ流にいえばカテゴリー5だった。

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今は少し衰えて、中心気圧925ヘクトパスカル、瞬間風速70mの「非常に強い」台風だ。

伊勢湾台風は上陸時に930ヘクトパスカルだった。

台風19号は今後すこし勢力を弱めて伊勢湾台風ほどではなくなるらしい。

気象庁は、狩野川台風と比べる。狩野川台風は洪水の被害が大きかったらしい。

今回の台風も雨量が半端でないらしい。

この狩野川台風は太平洋上にいる時には一時、中心気圧が877ヘクトパスカル(当時の言い方では877ミリバール)と超猛烈だった。静岡県に上陸したときは935ヘクトパスカルとすこし衰えている。

 

台風19号の予想進路は1月前の台風15号と極めて似ている。

台風15号で被災した人々にはダブルパンチになってしまいそうだ。

かくいう私も15号では20時間ではあるが停電を経験している。

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房総半島の住民からみればほんの20時間の停電だったが充分辛かった。

そこで、今回はもう少し準備をした。

何をしたかというと;

1.10リットルのポリタンクを5個、計50リットルの水を用意した。停電時のトイレ用水だ。台風15号の時に懲りて買った。

2.他に、湯舟に水を貯めておく。これもトイレ用だ。とにかくトイレは水をたくさん使うから、たくさん水はあったほうがいい。

3.窓ガラスにX字形にビニールテープを貼った。テレビでは割れてもガラスが飛び散らないよう養生テープを推奨する。ビニールテープがたまたまあったから貼っただけで、これはまあ気休めだ。台風15号の時はガラスは割れていない。マンション設計者は風力に十分耐えられるガラスを使うはずだ、と信じたい。

4.iPadと携帯をフル充電する。

そのほかに、普段から備蓄してあるものは;

5.1週間分の水と食料。

6.手回し発電ラジオ、乾電池式携帯充電器、ランタン、懐中電灯、そして乾電池。

7.カセット式ガスこんろ。停電時に温かいものを食べられるのはありがたい。

 

今回の台風19号は非常に強い台風だから、風ももちろん強いだろうが、

大型なため雨が降る時間が長く、雨量が半端でなくなるらしい。

テレビでもしきりに言うが、土地が低い東京都の東部地域の浸水も心配だ。

 

羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)という。

しかし、これから地球温暖化の進行とともに、大気に貯められるエネルギーが増して、気候が荒々しくなる可能性は十分ある。

「今までなかった」極端な気象現象が起こるようになる可能性が強い。

1人1人がそうした変化に備える必要がある。

 

高句麗好太王碑-3 -高句麗・百済・新羅 and 倭

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西暦400年前後、つまり好太王の頃、高句麗の本拠は集安にあった。好太王碑と好太王の墓とされる大王陵もそこにある。高句麗の名は、漢書地理志にあるから紀元前から中国に知られている。

それに対して、百済はソウルあたりに根拠地があったらしい。三国志魏書東夷伝の頃は馬韓といった。

新羅は、慶州が本拠地とされる。同じく三国志魏書東夷伝では辰韓といった。

倭は、どこにいたか?

そんなの九州や本州やその周辺の島々にいたのが当たり前とも言えるが、三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)では洛東江河口の狗邪韓國が倭の北岸という。地域としては弁韓だ。

倭人朝鮮半島弁韓に住み着いていたかもしれない。

 

ところで三国志魏書東夷伝に各地域の戸数(家の数)があり面白いから挙げておく。

高句麗;           3万戸

馬韓(後の百済);    10数万戸

弁韓辰韓(後の新羅);  4ー5万戸

倭諸国合計;        16万戸

これで見ると馬韓(後の百済)の戸数が図抜けて多いことがわかる。特に高句麗と比べると非常に多い。倭の16万戸は相当水増しがありそうだが。

この戸数の比をそのまま160年後の好太王の時代に当てはめることはできないが、まあ大雑把にはそのように推測しよう。

高句麗が人口が少ないにもかかわらず、百済との戦いにおいて大体優位だったのは馬を使えたからだと思う。

ちょうど中国と北方遊牧民族との関係に似ている。人口で圧倒している中国が北方遊牧民族との局地戦ではどうも分が悪いのは騎馬対歩兵の戦いだったからだ。

 

 前ブログで好太王碑に記載された戦歴をまとめた。

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160年経った西暦400年の頃、好太王碑に記載の倭は実に神出鬼没、百済に居たり、新羅に居たり、帯方郡に進出したりする。

好太王はそんな倭をもぐら叩きのごとく叩きまくっているように見える。

これはひとえに倭が海の民であることを物語る。

海は自由自在に通れる道だ。海の道を伝って倭は各所に進出した。好太王はそうした倭に対応するために陸の道を主に使って騎馬でもって倭を討つ。

倭は、分が悪くなれば船でさっさと引揚げた。

そんな戦いと見える。

 

しかし、好太王にとっては倭を討つことが目的ではない。

本当の目的は領土を拡げ人を獲得することだ。

好太王碑ではしきりに城を獲得したことを喧伝する。

人口の少ない高句麗にとっては、人口の多い百済の住民を攻め取り少しでも自国の住民と領土を増やす事が重要だった。

その感覚はモンゴルなどの遊牧騎馬民族と同様だ。遊牧騎馬民族は投降するものはほとんどそのまま受け入れた。そうしてモンゴルは短期間に領土を拡大し人を増やすことができた。

好太王にもそういう発想があっただろう。

 

対するに、海の民である倭には領土的野心はほとんどなかったと思う。

王健群さんは、このような倭を「海賊」と断定する。後の倭寇と同一視するものだろう。確かに倭という統一国家があってそこが命令を発するといった様子には見えない。

おそらく小国家がそれぞれ勝手に朝鮮沿岸を侵略したものだろう。

三国史記新羅本紀には、倭が春または夏に新羅を侵略する記述が実に多い。

例えば

西暦14年には、「倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。」(三国史記新羅本紀)

という具合だ。

以下、倭人新羅を侵略した年を西暦で挙げる;

14、73、121、208,232、233、249、287、292、294、346、364、393、405、407、431、440、444、459、462、463、476、477、482、486、500。

倭は冬の間は北風が強くて対馬海峡を渡れないが、春になって南風が吹き始めたら海峡を渡って、よく言えば、新羅と交易したのだろう。しかし、交易が不調だと、略奪に走ったことも頻繁にあっただろう。

神功皇后新羅征討にしても、そもそもの目的は

「西の方に国あり。金銀を始めとして目の輝く種々の珍しき宝さわに(多く)あり。我今その国をよせたまわむ(帰服させよう)。」(岩波文庫古事記仲哀天皇条)

というように金銀その他の宝が目的だった。

そこには、領土を拡げようという発想はなかった。

 

以上、高句麗好太王の倭との戦いは、騎馬民族と海の民の戦いだった。

次回から、好太王碑にある戦いを詳細にみる。