わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

国名の重複ー三国志列伝(魏志倭人伝含む)と漢書地理志

孫栄健という方の「邪馬台国の全解決」(2018年)という本が面白い。

何が面白いかというとご本人が中国の史書を深く広く読んでいるからだ。

中国の史書を読む上で中国人は圧倒的に強い。自国語だから当たり前の話だ。

しかし日本の学者さん達の中にはその当たり前の事がわかってない人がいるような気がする。

 

今日はその中から「国名の重複」を取上げる。

魏志倭人伝には

今使譯所通三十國 (現在交流のあるところは30国)

とある。30の倭人の国と交流があるという。魏志倭人伝の文章から国名をピックアップする。

狗邪韓國、對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國、有斯馬國,已百支國,伊邪國,都支國,彌奴國,好古都國,不呼國,姐奴國,對蘇國,蘇奴國,呼邑國,華奴蘇奴國,鬼國,爲吾國,鬼奴國,邪馬國,躬臣國,巴厘國,支惟國,烏奴國,奴國,狗奴國

とあって、全部で31国だ。あれ1国多いではないか。

しかしよく見ると「奴國」が2回出てくる。これはどうしたことか?

 

実は同様の国名の重複は「弁辰韓」にもある。

已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國

とあってその後に「弁辰韓」合わせて24国とある。けれど数えると26国だ。

ここで「馬延國」が2回出る。また「軍彌國」と「弁軍彌國」とあってこれは同一国かもしれない。以上で2個減らすと24国になる。

 

さらに馬韓を見る。

爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國

とあっておおよそ50余国とする。ここでは「莫盧國」が2回出る。

 

以上を孫栄健さんは発見した。孫栄健さんはこれを秘められた「春秋の筆法」だとして独自の論理を展開するが、そこは孫栄健さんの上記著書にゆずる。

私としては、シンプルにこういう不思議な事実がある事を伝えたい。

これをただ単に間違いとしてしまう気にはなれない。

かといってそこにどんな意味があるかわからない。

 

その後私は、「漢書地理志」で同様の重複をみつけた。

漢書地理志」では

凡郡國一百三(おおよそ郡と国の合計で103)

とあって以下郡国を羅列する。

表では104の郡国がある。そして「廣陽國」が2度でてくる。従って郡国数は103となる。

ただ、「漢書地理志」では、90番目と92番目に「廣陽國」が出てきて、しかも後の「廣陽國」の記述が尻切れだから、いかにも書き間違いっぽい。

 

ということで、これらの国名の重複が何を意味するか、単なる間違いか、何らかの意図をもって重複させたか、わからない。

 

さらに、「漢書地理志」には面白いことがある。

それぞれの郡国について人口の記載がある。

ところがそれぞれの郡国の人口の合計が、中国全体の人口と200万人程異なるのだ。

郡国(前漢)の人口の合計  57548652人

中国(前漢)の総人口    59594978人

となる。当時はエクセルなどもないから計算はとてつもなく面倒だっただろうが、それにしても随分大きな違いだ。

単なる間違いとは思えない。

以下に郡国の表を掲げておく。

1 京兆尹 口六十八萬二千四百六十八 682468
2 左馮翊 口九十一萬七千八百二十二 917822
3 右扶風 口八十三萬六千七十 836070
4 弘農郡 口四十七萬五千九百五十四 475954
5 河東郡 口九十六萬二千九百一十二 962954
6 太原郡 口六十八萬四百八十八 680488
7 上黨郡 口三十三萬七千七百六十六 337766
8 河內郡 口百六萬七千九十七 1067097
9 河南郡 口一百七十四萬二百七十九 1740279
10 東郡 口百六十五萬九千二十八 1659028
11 陳留郡 口一百五十萬九千五十 1509050
12 潁川郡 口二百二十一萬九百七十三 2210973
13 汝南郡 口二百五十九萬六千一百四十八 2596148
14 南陽 口一百九十四萬二千五十一 1942051
15 南郡 口七十一萬八千五百四十 718540
16 江夏郡 口二十一萬九千二百一十八 219218
17 廬江郡 口四十五萬七千三百三十三 457333
18 九江郡 口七十八萬五百二十五 780525
19 山陽郡 口八十萬一千二百八十八 801288
20 濟陰郡 口百三十八萬六千二百七十八 1386278
21 沛郡 口二百三萬四百八十 2030480
22 魏郡 口九十萬九千六百五十五 909644
23 鉅鹿郡 口八十二萬七千一百七十七 827177
24 常山郡 口六十七萬七千九百五十六 677956
25 清河郡 口八十七萬五千四百二十二 875422
26 涿郡 口七十八萬二千七百六十四 782764
27 勃海 口九十萬五千一百一十九 905119
28 平原郡 口六十六萬四千五百四十三 664543
29 千乘郡 口四十九萬七百二十 490720
30 濟南郡 口六十四萬二千八百八十四 642884
31 泰山郡 口七十二萬六千六百四 726604
32 齊郡 口五十五萬四千四百四十四 554444
33 北海郡 口五十九萬三千一百五十九 593159
34 東萊郡 口五十萬二千六百九十三 502693
35 琅邪郡 口一百七萬九千一百 1079100
36 東海郡 口百五十五萬九千三百五十七 1559357
37 臨淮郡 口百二十三萬七千七百六十四 1237764
38 會稽郡 口百三萬二千六百四 1032604
39 丹揚郡 口四十萬五千一百七十一 405171
40 豫章郡 口三十五萬一千九百六十五 351965
41 桂陽郡 口十五萬六千四百八十八 156488
42 武陵郡 口十八萬五千七百五十八 185758
43 零陵郡 口十三萬九千三百七十八 139378
44 漢中郡 口三十萬六百一十四 300614
45 廣漢郡 口六十六萬二千二百四十九 662249
46 蜀郡 口百二十四萬五千九百二十九 1245929
47 犍為郡 口四十八萬九千四百八十六 489486
48 越嶲郡 口四十萬八千四百五 408405
49 益州 口五十八萬四百六十三 580463
50 牂柯郡 口十五萬三千三百六十 153360
51 巴郡 口七十萬八千一百四十八 708148
52 武都郡 口二十三萬五千五百六十 235560
53 隴西郡 口二十三萬六千八百二十四 236824
54 金城郡 口十四萬九千六百四十八 149648
55 天水郡 口二十六萬一千三百四十八 261348
56 武威郡 口七萬六千四百一十九 76419
57 張掖郡 口八萬八千七百三十一 88731
58 酒泉郡 口七萬六千七百二十六 76726
59 敦煌 口三萬八千三百三十五 38335
60 安定郡 口十四萬三千二百九十四 143294
61 北地郡 口二十一萬六百八十八 210688
62 上郡 口六十萬六千六百五十八 606658
63 西河郡 口六十九萬八千八百三十六 698836
64 朔方郡 口十三萬六千六百二十八 136628
65 五原郡 口二十三萬一千三百二十八 231328
66 雲中郡 口十七萬三千二百七十 173270
67 定襄郡 口十六萬三千一百四十四 163144
68 鴈門郡 口二十九萬三千四百五十四 293454
69 代郡 口二十七萬八千七百五十四 278754
70 上谷郡 口十一萬七千七百六十二 117762
71 漁陽郡 口二十六萬四千一百一十六 264116
72 右北平郡 口三十二萬七百八十 320780
73 遼西郡 口三十五萬二千三百二十五 352325
74 遼東郡 口二十七萬二千五百三十九 272539
75 玄菟郡 口二十二萬一千八百四十五 221845
76 樂浪郡 口四十萬六千七百四十八 406748
77 南海郡 口九萬四千二百五十三 94253
78 鬱林郡 口七萬一千一百六十二 71162
79 蒼梧郡 口十四萬六千一百六十 24379
80 交趾郡 口七十四萬六千二百三七 746237
81 合浦郡 口七萬八千九百八十 78980
82 九真郡 口十六萬六千一十三 166013
83 日南郡 口六萬九千四百八十五 69485
84 趙國 口三十四萬九千九百五十二 349952
85 廣平國 口十九萬八千五百五十八 198558
86 真定國 口十七萬八千六百一十六 178616
87 中山國 口六十六萬八千八十 668080
88 信都國 口三十萬四千三百八十四 304384
89 河間國 口十八萬七千六百六十二 187662
90 廣陽國 口七萬六百五十八 70658
91 甾川國 口二十二萬七千三十一 227031
92 廣陽國    
93 膠東國 口三十二萬三千三百三十一 323331
94 高密國 口十九萬二千五百三十六 192536
95 城陽 口二十萬五千七百八十四 205784
96 淮陽國 口九十八萬一千四百二十三 981423
97 梁國 口十萬六千七百五十二 106752
98 東平國 口六十萬七千九百七十六 607976
99 魯國 口六十萬七千三百八十一 607381
100 楚國 口四十九萬七千八百四 497804
101 泗水國 口十一萬九千一百一十四 119114
102 廣陵國 口十四萬七百二十二 140722
103 六安國 口十七萬八千六百一十六 177616
104 長沙國 口二十三萬五千八百二十五 235825
    上記総計 57548652
    下記記載 59594978
    2046326
 
昭帝一,訖於孝平,凡郡國一百三,縣邑千三百一十四,道三十二,侯國二百四十一。地東西九千三百二里,南北萬三千三百六十八里。提封田一萬萬四千五百一十三萬六千四百五頃,其一萬萬二百五十二萬八千八百八十九頃,邑居道路,山川林澤,群不可墾,其三千二百二十九萬九百四十七頃,可墾不可墾,定墾田八百二十七萬五百三十六頃。民戶千二百二十三萬三千六十二,口五千九百五十九萬四千九百七十八。漢極盛矣。

魏志倭人伝にある距離(里数)を真面目にとらえてはいけない。

魏志倭人伝にある距離(里数)をそのまま地図に描くと、邪馬台国は太平洋の中に没してしまう。

という事は、魏志倭人伝にある距離(里数)を真面目にとらえてはいけない。

とは言っても、他に資料はないから、学者も素人も、魏志倭人伝にある距離(数字)をこねくり回す事になる。しかしいくらこねくり回してもそこにある数字だけからでは何も結論が出てこない。

魏志倭人伝の距離は実測したものではない。魏使節か、陳寿さんかが、適当にいれた数字に過ぎない。

例えば、

始度一海千餘里至對馬國(初めて一海を渡る、千余里、対馬に至る)

とある。一里が400m位とすると千里は400kmになる。ところが朝鮮半島から対馬までは60kmもない。だいたい当時船の上から航行距離を測る方法などなかっただろう。

ここの千里は大変な苦労をしてやっとたどり着いた距離という意味に違いない。

駿馬は一日に千里を走る、という場合の千里と同じ心理的距離だ。

その後、対馬から壱岐までもまた千里だ。さらに壱岐から松浦までは20kmくらいしかないのにやはり千里だ。

f:id:Aki104:20181105101019j:plain

元に戻って、帯方郡から、対馬の対岸の朝鮮半島の狗邪韓国までは七千里だ。

従って、帯方郡から倭人の国までは

7000+1000+1000+1000=10000里(万里)

となってきりがいい。

この万里というのも次のように心理的距離感を表すと思う。

漢書地理志に中国の大きさを

地東西九千三百二里,南北萬三千三百六十八里(東西9302里、南北13368里)

とする。実に詳細な数字だ。どうやって算出したのだろう。

ともかく、中国本土の大きさが約10000里だ。その中心に魏の帝都洛陽がある。中国本土の東の端が帯方郡であり、そこからさらに10000里の所(つまり中国一つ分の距離)から倭人の国が始まるのだ。

倭人の国の本拠地は邪馬台国(女王国)であり、

自郡至女王國萬二千餘里(帯方郡より女王国まで12000余里)

となる。

陳寿さんなどの当時の中国人にとっては、洛陽から5000里くらいが中国の範囲であって、邪馬台国は洛陽から5000里+12000里=17000里離れたところだった。

おそらくそこを世界の東の端とみなしていた。

 

ところで、東の端はわかったが西の端はどうだろう?

後漢書西域伝に

臨西海以望大秦、拒玉門、陽關者四萬餘里

とあって意味はよくわからないが、玉門関から40000里の所で西の海に臨みその向こうが大秦国(ローマ帝国)ということらしい。

つまり西の果ては40000里のさらにかなたとなる。中国4-5個分の距離となる。

中国4-5個分の距離でローマ帝国に至るというのは案外正しい。おそらくユーラシア大陸シルクロードを旅した日数からの概算だろう。このように陸路だと日数から距離感が出せる。

 

ここで東端が17000里で、西端が40000-50000里では、中国が真ん中にならない。

それで自分たちが中華であるとする中国人は納得できただろうか?

一般の中国人はわからない。

少なくとも史家というのはリアリスト(現実主義)であって、ドグマよりも現実を優先したと思う。

自分達(中国)が物理的距離において中心でなくても、中華思想は一向に揺るがなかっただろう。

 

 

和船の水を漏らさぬ技術

前回に続いて和船の基礎技術について記す。
www.aki104.com

大洋を航海できるような、大きな木造船を作るには、何枚もの板を剥いで(互いに側面でくっつけて)水を漏らさぬ一枚板のように加工する技術が要る。

さもないと、海水が船内に漏れ込んで船が沈没してしまう。

水を漏らさぬために、洋船ではホーコンという麻の繊維に油をしみ込ませたものをすき間に詰め込む。

ところが和船では、そうした詰物は使用しない。ひたすら2枚の板の間のすき間をゼロにする。

そんなことができるか、できるのだ、ということを以下に説明する。

参照と引用をしたのは

安藤邦廣著「職人が語る木の技」(2002)の中の2つの章:

「木造船の復活を」強力敦、三川充三郎、出口元夫(伊勢市大湊町)

「帆曳船の復活で木造船の技術伝承を」田上一郎、田上勇一(茨城県玉造町)

からだ。

以下の図は強力・三川・出口さんの章から引用する。

f:id:Aki104:20190424114302j:plain

(1)すり合わせ

剥ぎ合わせ面を加工した2枚の板をぴったり合わせて固定する。この段階では剥ぎ合わせ面にはまだ微細な凹凸があって、すき間があり、水がこぼれる。

板厚は底板では45㎜、側板では30㎜だそうだ(田上両氏)。

2枚の板の間には釘を通す穴が既に掘ってある。上図では片方の板に3個見える。

こうしたセットアップができたら鋸で剥ぎ合わせ面を挽く。

これにより、剥ぎ合わせ面の微細な凹凸によるすき間をなくすことができる。

f:id:Aki104:20190424115627j:plain

(2) こなしあい

次に、剥ぎ合わせ面を玄のうでたたいてすこしへこます。これは2枚の板ともやる。

船の完成進水後に、へこんだ面は水を含んで膨れて元に戻る予定だ。

この膨れでもって微細なすき間をふさぐこととなる。

f:id:Aki104:20190424120112j:plain

(3) はぎ付け

両板を十分締め付けて、釘を打込んで両板をつなぐ。釘は細く長く、斜めに打ち込むためにあらかじめ少し曲がっている。釘を導入する小さめの穴は前もって開けてある。

これで2枚の板の一体化ができた。

f:id:Aki104:20190424120608j:plain

(4) 埋め木

水が入り込まないよう釘穴をふさぐ。釘穴をふさぐ時にまきはだ(桧の甘皮をほぐしたもの)という詰物を使うこともあったらしい。

 以上が、和船の水も漏らさぬ技術だ。

和船はこのような高度な技術があったおかげで、船の外壁から作っていくことができた。外壁自体が船を支えるのだ。内部構造は、補助的役割でしかない。

なお外壁は曲面だから、板を曲げる事もやったらしい。水蒸気で蒸しながら熱と力を加えると板は曲がるらしい。30㎜厚や45㎜厚の板が曲げられるらしい。

一方、洋船では、船の背骨(竜骨)とか肋骨とかの内部の骨組みを作ってから、外壁を組付ける。外壁に残るすき間にはホーコンを詰める。

どちらが容易かというと洋船の方が簡単だ。つまり標準化しやすい。

どうも日本人の技術というのは、いつの時代でも、標準化とは逆行して特殊化しやすいようだ。

和船の水も漏らさぬ技術も高度だが特殊な技術と見える。それもまた面白いのだが。

 

さて、では古代の倭の船はどんなものだろうか?

卑弥呼の時代の丸木舟から、構造船に進化するころにはやはり詰物をしただろう。

上記のような水も漏らさぬ技術というのは、おそらく鋸・かんな・のみ・釘・とんかちなどの道具が一通り発明されたかなり後世にできたものだろう。

 

倭が大型の構造船・凖構造船を作るための基礎技術

以前、卑弥呼の時代の倭の船は丸木舟だった、という記事を書いた。

www.aki104.com

同じ頃、中国の魏や呉では、現在の木造船とほぼ同じく、板材をつなぎ合わせて作る大型の構造船・凖構造船があったらしい。

www.aki104.com

しかし、この板材をつなぎ合わせる技術がとんでもなく難しい技術だと思う。

想像してもらいたい、2枚の板をはぎ合わせて水も漏らさぬ1枚様の板にする事を。

その時2枚の板の間に少しのすき間も許されない。すき間があれば水が漏れ、船が沈んでしまう。

2枚の板の間にすき間がないように加工する技術が、西暦238年の頃に魏や呉にはあったが倭にはまだなかった。

では、2枚の板の間にすき間がないように加工する技術とはどのような技術だろうか。

当時の技術を記した文献には未だ出会っていないから、現在の和船の技術から類推したい。

「職人が語る木の技」(安藤邦廣著、2002年)という本がある。この中の、

「木造船の復活を」(強力淳、三川充三郎、出口元夫)の章で、出口さんが言う、

「アカ(船内にしみ込む海水)止めとしては杉の方が水を吸うと良くふくらむので楽です。」

「洋船の場合は、外板の継ぎ目のアカ止めにホーコン(麻の繊維に油をしみ込ませたもの)をつめますが、和船は木をはぎ合わせるだけで、そのようなものは使いません。」

「(和船でも)長年使ってアカがもれてくれば、まきはだ(桧の甘皮をほぐしたもの)をつめますが、新造船には使いません。」

ということで、洋船ではすき間を防ぐためにホーコンという麻の繊維に油をしみ込ませたものをつめる。

和船では、木をはぎ合わせるだけですき間をなくし詰物を必要としない技術をもっている。

ただし、和船でも長年の使用でアカ(海水)がもれてくればまきはだ(=まいはだ:桧の甘皮をほぐしたもの)をつめる。

また、幸いなことに、木は水を吸収して膨れる。十分乾燥させた木材で船を作り、海に浮かべると水を吸って膨張して微細なすき間は自動的にふさいでくれる。

そうした木の特性を知った上で、残ったすき間には詰物をする技術を当時の魏や呉は持っていたと想像できる。

逆に言えば、そうした詰物によって安全に船の浸水を防げるほどに、すき間を小さくできたと言えるかもしれない。

以上、「2枚の板の間にすき間がないように加工する技術」と大げさに言ったけれども、実は、できたすき間には詰物をするという至極普通の発想だった。

ただ、その至極普通の発想を実現するには、かなり精度の良い木材加工技術が必要だ。鋸やのみ、かんなといった道具も必要だ。

倭がそうした技術を身につけて、丸木舟から脱して大型の構造船・凖構造船を作るのはもう少し先になるだろう。

対馬海峡を渡れる程度に頑丈な、大型の構造船・凖構造船ができた時にようやく、朝鮮半島から馬を運ぶことができた。

従って、馬を導入し始めた時には大型の構造船・凖構造船を持っていたことになる。

 

 陳寿さんの立場から見聞した倭人と倭国について

三国志は魏蜀呉の三皇帝が並立した面白い時代を記述したものだ。

その中に魏志倭人伝(正確には三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝の中の倭人条)がある。

三国志の著者は陳寿という人だ。

www.aki104.com

 陳寿さんの立場から見聞した倭人倭国について想像してみたい。

陳寿さんは西暦233年に蜀の国で生まれ、297年に65歳でなくなったらしい。晋書に陳寿列伝がある。

卑弥呼が魏に初めて朝貢するのが西暦238年だから陳寿さんはその時まだ5歳だ。

しかも、魏とは対立する蜀に生まれているから、倭女王卑弥呼の魏への朝貢などは到底知らずにいただろう。

その後の数回の倭の朝貢も知らずに育っただろう。

やがて蜀に仕官したけれど、その蜀が西暦263年に滅亡してしまったから、陳寿さんは30歳で失職してしまった。

西暦265年に司馬炎が魏から帝位を奪って(形式上は禅譲西晋が成立して後に、陳寿さんは西晋に仕官できたらしい。

倭国西晋の成立を祝って翌266年に朝貢したがその時陳寿さんが仕官していたかどうかはわからない。

 

というわけで、「陳寿さんの立場から見聞した倭人倭国」と言った割には陳寿さんと倭の間の直接的オーバーラップはほとんどない。

直接的オーバーラップがほとんどないけれども、魏志倭人伝の描写は実に生き生きとしている。

このギャップはどこからくるだろうか?

おそらく三つの可能性が想像できる。

1)魏の使節旅行記をそのまま魏志倭人伝に掲載した。

2)魏の使節の話を聞いた別の史家の文章をそのまま掲載した。

3)陳寿さんが魏の使節の団員から直接話を聞いた。

個人的には、3)であることを想像したい。

けれど、実際は2)である可能性が高いだろう。当時既に「魏略」とかが存在する。

当時は著作権などは気にしないで、他人の文章を断りなしに引用できただろう。

 

とにもかくにも、陳寿さんにとっては、倭女王卑弥呼朝貢は同時代の出来事だったと思う。

当時の中国人にとって東の辺境の地の倭からの朝貢はどのくらい注目されただろうか?

良くはわからないが、少なくとも魏の国にとっては敵対する呉を牽制する国として倭に期待したようだ。

それは、「親魏倭王」という称号に表れている。このように称号は他にはインドを領有するクシャナ朝と言われる大月氏に与えられた「親魏大月氏王」しかない。

つまり倭が大月氏と同格とみなされた。

しかし、その後の経過は、倭国内での内乱で卑弥呼が亡くなるなど、おそらくは魏の期待に沿うものではなかった。

 

 

 

史家の功名心

f:id:Aki104:20190406211355j:plain

史書の成立

中国の史書というと、史記漢書後漢書三国志と続く。

しかし成立年代となると、この順序ではなく、史記漢書三国志後漢書だ。

後漢書の成立がやたらと遅くなってしまった。陳寿さんの三国志の成立から200年近く遅れて成立したのだ。

 

なぜ後漢書が遅くなったか?それは陳寿さんが後漢書よりも三国志を優先したからだ、などといいかげんな想像をしてみたくなる。

 

史家というのは歴史を記録することにより後世に著者として名を残す事ができる。

既に陳寿さんの前には、史記を書いた司馬遷漢書の著者班固という歴史に名を残した史家がいる。

陳寿さんにもそうした先達に続こうと思う功名心が当然あっただろう。

陳寿さんは、そうした立場に任官したときにおそらく考えたに違いない、後漢書を書くか?三国志を書くか?と。

三国並立の時代は50年くらいしかないから、量が少なくて済むし、また英雄も多くいる面白い時代だ。

一方で、後漢の時代は光武帝の建国後はあまり面白くない時代が200年も続く。

功名心の旺盛な人なら、労多くして功の少ない後漢の歴史よりも三国並立の面白い歴史を書きたがるだろう。

ということで陳寿さんは三国志を書いた。

陳寿さんの偉い所は、三国それぞれの歴史書を書いたことだ。つまり魏書だけでなく、蜀書と呉書も書いた。その3個の書を集めて三国志とした。

もっとも三国の間には量的な差がある。文章の量としては

魏書:蜀書:呉書が4:1:3くらいだ。

陳寿さんはこうして三国志を書いて歴史に名を残した。

 

そうすると、先を越された後漢の歴史を誰が書くかだ。

後漢の滅亡から250年も経ってようやく范曄さんが後漢書を書上げた。

不幸にして范曄さんは謀反の罪で殺されてしまったが、

後漢書は、史記漢書三国志とともに四書として後世に名を残す事ができた。

 

 

魏の使節は卑弥呼に会ったか?

魏志倭人伝によると、西暦238年の女王卑弥呼朝貢に応える形で、2年後に

梯俊等が皇帝の手紙(詔書)と印綬をもって、倭國を訪れ倭王に会った。漢文では

梯俊等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王

とある。その後にも倭王が魏の使節に感謝しており、また再び倭王が魏に朝貢使節を送ったとある。

ここで「倭王」とは倭女王卑弥呼だろうか?

読んでいるとどうもそのようには受取れない。

卑弥呼を指すときには「倭女王」とか「女王」と明言している。ところが魏の使節の訪問の記述部分でのみ突然「倭王」という語を使うのだ。

どうも「女王」と「倭王」を区別しているように、私には思える。

ここの「倭王」は卑弥呼を補佐している弟のことではないか。

 

本来、魏の使節は、皇帝の詔書をもって倭国へ来た。その皇帝の詔書のあて先は倭女王卑弥呼だ。魏の使節は当然に倭女王卑弥呼に会う必要がある。

会ってないならその使節は命令不実行で死刑になってもおかしくない。

ところが、何らかの事情で卑弥呼には会わなかった。何らかの事情とは想像するしかないが、例えば、

1.卑弥呼が容易に行けない程遠い所にいた。大和地方にいればかなり遠い。

2.卑弥呼が神に仕える身であって会えず、政治一般を取り仕切る弟が九州まで迎えに来た。

3.技術的な理由:例えば、魏の使節は面子上魏の大きな船で来たがそれが関門海峡を越えられずに邪馬台国まで行けなかった。

等の事情があったかもしれない。

魏の使節邪馬台国やその手前の投馬国にも行っていないらしいのは、邪馬台国と投馬国の戸数だけが推量の「可」(べし)を使っている点からも想像できる。

 また、邪馬台国と投馬国への道程だけが「里」でなく日数表示なのもそこまで行っていない事を示唆するかもしれない。

 

しかし、倭女王卑弥呼に会っていないと言ってしまうと、魏の使節は死刑になりかねない。かと言って史家として陳寿さんは使節が女王に会ったと嘘は書けない。そこで、婉曲に「倭王」という表現を使って「女王」と区別した、と想像する。