わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

台風の強さ、ついでにハリケーンも

台風15号に襲われてから11日が経ったが、電信柱が折れたりして、未だ停電から復旧していない家が千葉県内に114800軒もある(teideninfo.tepco.co.jp)。

我が家は20時間の停電を経験したけれども、それでも十分辛かった。とても他人事とは思えない。

www.aki104.com
テレビの映像では停電の他にも、屋根が吹き飛ばされた家が多くあるのがわかる。

また、学校の窓ガラスが割れているのもある。風だけで窓ガラスが割れるとは相当な風力だった。

このように今回の台風は中心気圧(960ヘクトパスカル)だけで見ると、めちゃくちゃ強いものでもないのに風による被害が甚大だった。

気象庁がしつこく警告していた。そのとおりだった。

 

そこで台風の強さについて調べた。台風の強さは、中心気圧でなく、風速で決める。

・台風       風速17m/秒以上   時速 61km以上

・強い台風     風速33m/秒以上   時速119km以上

・非常に強い台風  風速44m/秒以上   時速158km以上

・猛烈な台風    風速54m/秒以上   時速194km以上

しかし、私のように中心気圧に慣れ親しんだ者には風速で言われてもどうもピンとこない。それはおそらく気象庁の人も同様だろう、というわけで日本では中心気圧も併記する。

アメリカでは中心気圧を言わないから、私などはハリケーンの強さがさっぱりわからなかった。

ともかく、今回の台風は中心気圧は960ヘクトパスカルでむちゃくちゃ強いわけではないが、コンパクトであったがために中心付近の風速が非常に強くなったようだ。

被害に直結するのは風速であって中心気圧ではない。風速を主にするべきだろう。

次にその風速だが日本では秒速で表現する。これもまたぴんと来ない。

上の表で、秒速の他に時速も記した。1時間は3600秒だから3600倍してkm単位にした。

これだとすこしピンとくる。例えば「大谷さん」の投げるボールが非常に強い台風と同程度だとわかる。

あるいは新幹線のスピードは猛烈な台風以上だ。

 

今回の台風15号は千葉市で風速57m/秒を記録した。

これは上の猛烈な台風に相当するではないか。と考えそうだが、実はそうでもない。

風速57m/秒は瞬間風速だ。

一方上記表の風速は10分間の風速の平均だそうだ。

風の音を聞いていると、決して一様に吹いているわけではない。強くなったり弱くなったり、いわゆる「風の息」をしている。その一瞬の強い時の風速が瞬間風速になる。

金沢気象台のお天気まめ知識

https://www.jma-net.go.jp/kanazawa/mame/kaze2/kaze2.html

に具体例で説明がある。その例では

瞬間風速は25.7m/秒 なのに対し、

風速つまり10分間平均風速は3.8m/秒 となる。

かなり差があるものだ。瞬間風速が風速の7倍程になった。

そうなると、風速と瞬間風速の関係性に興味がある。上記HPには

「一般的に、瞬間風速は平均風速の1.5から2倍近い値になります。」とある。

あれれ、具体例の7倍とは違うではないか。

と目くじら立てたくなるが、まあ、具体例は風速が小さい場合だから、風速が大きくなった時には瞬間風速は風速の1.5から2倍くらいと思っていいのだろう。

そうすると瞬間風速57m/秒は、風速30m/秒から40m/秒となって「強い台風」に分類されるから、気象庁が事前に言っていた範囲だ。

 

ここで、ハリケーンと比較する。というのは数字だけ見るとハリケーンの方が大幅に強いように見えるからだ。

以下ハリケーンのカテゴリーだ。

・カテゴリー1   風速33m/秒以上   時速119km以上

・カテゴリー2   風速43m/秒以上   時速155km以上

・カテゴリー3   風速50m/秒以上   時速180km以上

・カテゴリー4   風速59m/秒以上   時速212km以上

・カテゴリー5   風速70m/秒以上   時速252km以上

 原因は風速の定義が異なる点だ。

ハリケーンの風速は、1分の平均風速で求める。

台風の風速は10分の平均風速だ。

どちらが大きく出るかというと当たり前だけど1分の平均風速だ。

どれくらい差があるかというと、1.2-1.3倍の差らしい。

1.3倍とすると、「猛烈な台風」がちょうどカテゴリー5のハリケーンに対応する。

猛烈な台風(~カテゴリー5ハリケーン)は中心気圧が895ヘクトパスカルなどと、900以下になることもある。今年ではハリケーンドリアンが一時カテゴリー5だったらしい。

ほかの「強い台風」「非常に強い台風」は、カテゴリーとの対応関係がはっきりしない。

台風とハリケーンとは、風速の計算法も異なり、強さの分類法も異なる。気象学的にはまったく同じものであるにもかかわらずだ。

 

以上、なんとなくすっきりしない。

 

こうした基準は全世界共通にできないものだろうか?

それぞれの国のメンツや歴史的経緯もあるだろうが、計算法や分類法(カテゴリー分け)をなんで標準化できないのか?

通化・標準化はヨーロッパ人が得意だが、そのヨーロッパには台風もハリケーンもないから、ヨーロッパに期待できない。

南太平洋とインド洋にはサイクロンが発生する。これらをウオッチしているのはオーストラリアやインドだろうか。

それから南インド洋にもサイクロンが時たま発生してマダガスカルを襲ったりする。

台風は、日本の他、中国、台湾、フィリピンにもやってくる。

そうすると、日本とアメリカのほか、オーストラリア、インド、マダガスカル、中国、台湾、フィリピンなどを含めて協議することとなる。

うーん、共通化・標準化は当分無理かもしれない。

台風15号の目に入った、そして停電。台風一過の長い長い一日。

千葉市に住んでいて、台風15号の目に入ってしまった。

 

9月9日午前4時30分頃、地響きの様な風の音に目が覚めた。

その重量感のある風が、次から次へとベランダのアルミサッシに圧力をかける。

「去年も同じような台風があったな、そのときよりも酷そうだ。」と考えながらも、

でも中心気圧は960ヘクトパスカルと昨年の台風よりやや弱いからそれほど大したことないだろうと嵩を括っていた。

実はそのころ瞬間最大風速は毎秒57mを記録していた(千葉市中央区)。

気象庁は15号を「コンパクトな台風」と表現した。語感的には小さな台風と見られそうだが、とんでもなかった。暴風雨圏は小さいものの、中心付近の等圧線の密度が高く風が猛烈に強かった。

しかも、台風の強さが衰えないで千葉まで来た。

ひと昔前の台風は南の海上で強さがピークになり、日本にやってくる頃にはかなり衰弱していた。

ところが最近の台風は日本に上陸するまであまり衰えない。今回の台風15号も小笠原付近での勢力をそのまま保持して千葉までやってきた。

これは日本付近の海水温が近年上昇しているからだ。 地球温暖化の影響に違いない。

 

午前4時40分、急に風が止まった。目に入った、と思う。

テレビの台風の位置もまさしく真上に入ることがわかる。

そのまま10分程静かな時間が過ぎた。星空は見えないかと窓越しに見たが、暗くてよくわからない。

午前4時50分、吹き返しが急に強くなった。目から外れたのだ。することがないからベッドにいった。

 

ところが、午前5時頃、停電になった。

「しまった風呂に水を張っておくのを忘れた」と思ったが後の祭り。

我が家はマンションの6階だから、ポンプで水を上げる。停電ではそのポンプが動かないから水が出ない。

一軒家ならば、水自体の水圧で水が出るから、ポンプはいらない。停電でも水は出る。

つまり、マンションでは停電は単に停電でなく、断水も意味する。

水が出ないと一番困るのがトイレだ。

飲むための水は2リットルのペットボトルを数本で数日はもつ。

しかしトイレの水は一回に使う量が半端でない。

1回にどのくらいの水を使っているかは確かめてはいないが、仮に2リットルのペットボトルをトイレを使うなら1回に3本くらいは必要だろう。

 

常日頃家族に、停電に備えて風呂水をためておく必要性を説いていたのに、

肝心なその時に忘れてしまうとは・・・何たる失敗!

「まさか本当に停電になるとは思ってもいなかった・・・」我ながらかなり安全ボケしていた。

ベランダからみると周辺は真っ黒の闇、ブラックアウトだ。すべて停電だ。遠くのマンションはまだ光があったが1時間もしたらそのマンションも黒くなった。海辺の工場地帯もほぼ漆黒だ。

こんな時に100円ショップのLED (light emitting diode) の懐中電灯は優れものだ。7個ものLEDを使ってかなり明るく照らしてくれるにもかかわらず、電池の消耗は少なく長持ちする。青色ダイオードの発明者3人に感謝する。

何もできないから、とにかく、明るくなるのを待つ。

 

 iPadガラケーも十分充電してある。

PCは一切触らない。

冷蔵庫もできるだけ開けない。

防災道具一式の中からソニー製の手回し充電のラジオを引っ張り出してきた。

10年以上前に買ったものだが、手回しで充電すればちゃんと動いてくれた。

FMとAMとあるが、FMは音が悪いから、AMのNHKを聞く。

 

被害状況が見えてくる。

千葉県中心に90万戸以上が停電だ。

しかし東京電力 (teideninfo.tepco.jp) によると、千葉市美浜区の停電戸数の記述がない。

「そんなことないだろ現に周りが皆停電だ。」と憤慨しても一向に記述がないままだ。

君津で送電塔が2基倒れた。

関東南部の朝の電車はほとんど動いていない。

 

10時過ぎに京葉線が動き始めた。

同じ頃、津田沼では総武線各駅停車が間引き運転していたらしく、2kmの長蛇の列があったらしい。総武線快速はまだ動いていなかったらしい。

千葉市の西隣の習志野市一帯は停電でないとの情報を得たので、新習志野駅前のモールというほどでもないショップ街に新しくできた温泉「ゆうねる」に行くことにした。

その前に、水道の栓は皆締めてあることを確認する。留守中に断水が解消した時に水が流れっぱなしだと酷いことになる。

 

エレベーターが動かない。

停電だからエレベーターが動かなくなるのは当たり前だ。だけど、実際に目の前のエレベーターがブラックアウトしているのはかなりショックだ。

こちらは6階だからまだいいが、上の階は足腰の負担が大きい。

ましてや高層マンションではどうなることか。

ともかく階段で地面までたどり着く。

 

まず稲毛海岸駅まで歩く。セブンイレブンは停電で室内は暗いが営業していた。非常時の客が結構買い物をしている。隣のコインランドリーは休業だ。

周りの団地も光がない。

ところが稲毛海岸駅付近には明かりがあった。イオンの特大スーパーマリンピアは停電ではないそうだ。人々でごった返している。特に4階レストラン街には順番待ち客がいる。こんな光景は普段は見られない。

停電でエアコンも動かせずに暑くてかなわないしマリンピアに涼みに来たに違いない。

電車の混む時間をかわすためも兼ねて、そこで昼食した。

 

14時近くにようやく京葉線に乗った。座れはしないが他人との間に20-30cmの空間を持てる程度の混みようだった。

とりあえず、新習志野駅のゆーねるで、たっぷりの湯で体を洗う。

その後、食堂のカウンターのUSB接続を使ってiPadを充電する。

そうこうしているうちに19時になった。

 

稲毛海岸に戻る。

駅周辺は光にあふれている。「停電から回復しているかも」と期待感が膨らむ。

ところが、駅から離れるに従い、明かりが少なくなる。

消防署は2台の発電機で自家発電している。

急速に悪い予感が拡がる。

そして、わがマンションはまだブラックアウト (black out) だった。

 

たった一個の100円の懐中電灯を頼りに、ろうそくを探す。

ろうそく立てがないから大きな皿の真ん中にろうを垂らしてろうそくが立つようにする。

マンション内の公園の水道栓から水を汲んでいる住民がいたから、こちらもまねて、防災用水パックとバケツを持って水を得る。

両手にそれぞれ5-10kgの水を持って6階まで登るのはかなりしんどい。やっとのことで6階にたどり着く。

しかしその水は一回のトイレで使い果たす。

我々現代人は何というフレッシュウオーター(fresh water) の無駄遣いをしているのか、と一瞬呪う。この安全な水を得られない人々がアフリカにはまだいっぱいいるというのに・・・

 

千葉県にはまだ停電が60万戸あるという。こちらもその一人だ、と思っても何の慰めにもならない。

もっともきついのは順次復旧を進めていますとしか言わない東京電力の説明だ。つまりいつ復旧するか予定も言わない。たとえば一か月かかるならそうと言ってもらいたい。そうすれば対処法が決められる。1日で復旧するかもしれないし、1週間かかるかもしれないという説明でもいい。1日の場合と1週間の場合と両方の準備ができるからだ。復旧予定を言わないのは東京電力の怠慢ではないか、などとぶつくさ言う。

夜も遅くなったから今日中の復旧はないだろうと、寝る準備をし始めた午後11時頃、静かに電気がきた。

テレビ、電話、WiFiのランプが点いた。インターホンの明かりが点滅する。

蛍光灯ランプが眩い。

こうなると現金なもので真夜中まで働く東京電力に感謝したくなる。

 

ということで、台風の目に入ったことから始まったなが~いなが~い一日がやっと終わった。

 

我が家は一応防災には関心が強いと自負していた。

しかし、今回の経験を通して、トイレの水を如何に確保するかがとても重要だとわかった。

そのもっとも簡単な方法は湯舟に水を貯めておくことだ。

しかし、これが意外と面倒だし、貯めた水には雑菌が繁殖していろいろ問題を起こす。

常時貯めておくことはできないが、台風などであらかじめ予想できる場合には湯舟に水を貯めることが有効だ。今回の件で懲りた。これから台風の時は必ず水を貯めよう。

台風による、このような大規模な停電は今回が初めてだ。しかしおそらく今回限りの現象ではない。地球温暖化により今後同じような台風が何回もくるだろう。現に昨年は台風21号によって大阪で大規模な停電が起こっていた。

台風はまだ予測できるが地震では、そうはいかない。地震が起こってしまって、停電すれば、マンションでは断水もするし、エレベータが止まるから高層階まで水を多量に運ぶのがほぼ不可能になる。

このような場合にどうするか、前もってなんらかの準備をしたい。しかしどうすればいいか、まだ決めかねている。

家庭で貯水タンクを持つ必要があるかもしれない。

 

蛇足:因みに台風の目は衛星画像でもわかるようにかなり大きなものですから、台風の目に入るのはそれほど珍しいことではないです。台風の進路と暴風雨の変化に注意していれば今目に入ったとわかります。かくいう私は目に入った経験は今回で2度目です。(70年近く生きてたった2度とは、やはり珍しい事か?)

 

 

「三国志」展からー曹操の墓

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再び「三国志」展から、曹操の墓を取上げる。黄河の北の安陽市にあるらしい。2008年から2009年にかけて発掘され、現在は曹操の墓だと確定したらしい。曹操高陵と呼ぶ。内部から曹操を意味する「魏武王」とある石牌(No.127)がでた等の証拠から曹操の墓と確定したらしい。

このように、大きな墓があった時に文字のある物が出土しないと誰の墓か確定するすべはほとんどない。日本にたくさんある古墳に文字のある遺品が出土するだろうか、ちょっと楽しみだが、宮内庁の考えにより発掘調査が禁止されているからこの楽しみは実現しそうにない。

曹操は、墓を大げさにするなと戒めたらしい。そんなことに国力を浪費するな、ということだろう。実際、展覧会に墓の中の構造をなぞらえた仮想現実の展示があったが博物館の一部屋に入りきるものだった。

曹操自身は魏の皇帝にはなっていない。その子の曹丕が魏を起こし皇帝になった。三国志演義では曹操は奸雄になってしまっているけれど、それは本当ではないようだ。

 

曹操高陵に関する展示物で気づいたものが以下の「白磁」(No.130)だ。

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説明にあるように、白磁は6世紀後半と考えられている。曹操は3世紀に亡くなっているから300年以上前にもかかわらず、白磁曹操の墓から見つかっている。不思議な物だ。当時の青磁の技術があれば「突発的に」このような白磁ができてもおかしくない、らしい。しかし不思議だ。

 

曹操の墓について説明したから、蜀の劉備、呉の孫権についても説明する。

劉備の墓は恵陵といって成都にあるらしい。ただ諸葛孔明の武侯祠のなかにある。諸葛孔明劉備の部下ではないか。主客が長い年月の間に逆転したのか。

ただ、確定はしていないらしい。

孫権の墓は南京にある。近くに明孝陵(明の太祖洪武帝朱元璋の陵墓)がある。こちらは発掘していないらしい。

 

「三国志」展からー金印・青銅印・紙

三国志」展に、金印・青銅印・紙が展示されているから、それらについて紹介したい。

金印といえば日本では「漢委奴国王」印だ。こうした印は原則的には、中国政府が地方に任官した役人に「仮授」したものだ。「仮授」だから、任を解かれたら返さねばならない。しかし、倭のように遠方の地だとたぶん「仮授」したきりになって返しもしなかっただろう。というわけで「漢委奴国王」印が日本に残った。

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No.71.「魏帰義氐侯」金印

上の写真左だ。2.25cmx2.25cm。三国時代。氐は魏の西にいた異民族だ。氐をてなづけるために侯にとりたてたに違いない。

No.70.「関内侯印」金印

写真右。2.5cmx2.5cm。後漢から三国時代。関内侯はかなり上位の役職らしい。「魏帰義氐侯」金印と比べると明らかに大きい。因みに「漢委奴国王」の印は2.35cmx2.35cmだから「関内侯印」より少し小さい。なおこの印を見るとかなり角部分がすり減っている。それだけ使用したものだろう。

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No.54.「偏将軍印章」金印

2.4cmx2.4cm。後漢(1世紀)。曹操がやむなく投降した関羽に授けた位が「偏将軍」だ。

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No.65.「曹休」印

青銅。2.5cmx2.5cm。三国時代曹休曹操の親族で軍人だ。大型の墓からこの印が出たことで曹休の墓とわかったらしい。この印は青銅製だ。写真がピンボケで申し訳ない。

 

以下は写真がない。

No.59.「孟トウ(「謄」の字で「言」の部分が「二」になったもの)」印

青銅。1.8cmx1.8cm。三国時代から西晋。私的に作った印らしい。遠慮して小さく作ったか。

No.24.「天帝使者」印

青銅。2.3cmx2.3cm。後漢。「天帝使者」とはなんだろう?どうも太平道とか五斗米道とかの当時の宗教団体が使った印らしい。こうした印をつかう団体が跋扈する社会とは、政府の権威が相当落ちているように感じる。後漢の末期だろう。

 

ところで、紙は後漢時代に発明された。こうした印はその前からあるから、印の用途は紙に押すものではない。

こうした印はどのような用途に使ったか。

竹簡や木簡に記した手紙を束ねて最後にそれに封をするために泥の塊を押付け、そこにこうした印を押す。印を押された泥の塊を「封泥」という。

親書を送る場合、この封泥が壊れていなければ、誰にも読まれていないことの一応の証明になる。

封泥の上では文字が浮き上がるように、印は必ず文字部分が凹んでいる。そこが現代の印とは逆だ。

こうした封泥は、手紙を見るときに壊れて捨てられるだろうが、案外、後世に残っていたりするらしい。上記「天帝使者」の封泥が残っているらしい。

日本にも封泥がいくつか残っているらしい。博物館の写真集かなにかで見たことがある。

 

最後に、三国時代の紙を紹介する。

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No.74.墨書紙

径17.4cm。後漢。墓から出土した。銅鏡を漆の鏡箱にしまう時に鏡が傷つかないように上下に緩衝材として挟み込んだ。文面からもとは手紙らしい。手紙を丸く切り取って2次使用したらしい。ということで後漢の末期(西暦185年以前)には、上流階級では紙を使って手紙のやり取りをしていたらしい。一枚の紙というのは風化してなかなか後世に残らないものではないだろうか?それがたまたま鏡の緩衝材として残った。

 

ということで「三国志」展から紹介した。同展覧会は9月16日まで東京国立博物館でやって10月から九州国立博物館で行う。

「三国志」@東京国立博物館(9月16日まで)

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三国志の展覧会が上野の東京国立博物館東博)であるから見てきた。

上の写真は中国では古代から軍船としてあった楼船の模型(No.51)だ。宋の時代以降に編纂された軍学書に記載された図をもとに作ったものらしい。宋というと西暦960年に成立したから三国時代からは600年以上後の時代だ。よって上記のような精密な船が三国時代にあったか疑問だが、文献の記載からは基本的構造は変わっていないようだ。

「楼」とは望楼という言葉があるように遠くを望める背の高い建物だ。それを船の上に載せたから「楼船」となる。

なぜ軍船としてこんなものを作ったか。

三国志展の解説に「魏と呉は相手を威圧するため無理をして大型の楼船をつくったらしい。」とある。案外そんなところに真実があると思う。

実用的には高いところから矢を射かけられる利点はある。

しかし、重心が高くて安定性が悪い。少しの風でひっくり返る。おそらくこのままでは海では使えない。揚子江などで使えるくらいだろう。

呉の皇帝の孫権揚子江で新造の楼船に乗ったところ風が出てきたので船長があわてて船を戻した。孫権が「度胸がないな」と船長を笑ったところ、船長は「皇帝であるあなたを危ない目にあわせるわけにはいかない。」と応えた。孫権は黙ってしまった。

またある時、孫権が船で敵陣視察をすると猛烈な数の矢で船が傾いた。孫権は船の向きを180度変えて別の側面で矢を受けさせ、傾きが解消したところで悠々と帰った。

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(上の写真は三国志展より)

もっと実用的な船(貨客船 No16)の土製模型も展示されている。

戻って上の楼船には帆(マスト)がある。三国時代の船にマストがあっただろうか?

楼船ではないだろうが、マストのある船が存在していたことが呉の行政文書である竹簡にある。当時まだ紙は貴重品だったから、竹の板に文字を記した竹簡が行政文書になった。

三国志展展示の竹簡(No.102)には

呉の嘉禾2年(西暦233年)の日付とともに船の装備について

  マスト長さ六丈(17m弱)

  上横棒長さ六丈(14m強)

  下横棒長さ六丈(14m強)

  舵

  碇

  ロープ

とある(括弧内は解説による)。

マストの長さが17mだから、船の長さもそのくらいあったに違いない。

つまり、三国時代の呉の船にはマストがあった。

それどころか碇もあった。碇があるということは、船を接岸する必要がないことを意味する。たとえば敵地の魏の沿岸に行ったときに、魏の陸兵の襲撃を恐れる必要がない。

最後のロープというのはマストの操作に使ったか、碇を下すのに使ったか、わからない。たぶんどちらにも必要だ。

 

このように、西暦233年の頃、呉および魏ではかなり大きな船を作っていた。

このような大きな船を作るには、水漏れを許さない基礎的な造船技術が必要だ。

当時の日本(倭)にはまだその技術はない。

呉と魏はそうした技術をすでにもっていた。特に呉はそうした技術を使って海で使える船をつくった。

そうして、魏の沿岸部を侵略し、

南方へ行って侵略と交易をおこない、

台湾にまで行った。

 

 

  

漢書地理志より考察

漢書地理志というのは、

前漢の最終期(西暦2年:平帝の2年目、平帝の補佐役に前漢を滅ぼす王莽が就任)

における、郡名、県名、郡の人口等を羅列記載したものに解説が付く。

例えば、楽浪郡の項には以下の記述がある。

 

樂浪郡,戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。縣二十五:朝鮮,俨邯,浿水,含資,黏蟬,遂成,增地,帶方,駟望,海冥,列口,長岑,屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,吞列,東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。

これから、楽浪郡は戸数が62812戸で人口が40万6748人いる。25の県から構成されていて、その中に後に分離して郡に昇格する帯方の名もある。県で最初に記載された朝鮮に郡の本部があるようだ。

といった事がわかる。

楽浪郡の人口40万というのはかなり多い。

 

同時に設置された玄菟郡は人口22万だからこれもまあまあ多い。

玄菟郡,戶四萬五千六,口二十二萬一千八百四十五。縣三:高句驪,上殷台,西蓋馬。

ここに高句麗の名が出てくる。

 

その隣のより中央に近い遼東郡の人口は27万人だから、先進地よりも楽浪郡の人口が多い事となる。

遼東郡,戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,新昌,無慮,望平,房,候城,遼隊,遼陽,險瀆,居就,高顯,安市,武次,平郭,西安平,文,番汗,沓氏。

遼東郡の本部は襄平だ。後に楽浪、帯方を支配する公孫氏の本拠となる。

 

ついでにさらに中央に近い遼西郡は35万人となってやっと楽浪郡に近い人口となる。

遼西郡,戶七萬二千六百五十四,口三十五萬二千三百二十五。縣十四:且慮,海陽,新安平,柳城,令支,肥如,賓從,交黎,陽樂,狐蘇,徒河,文成,臨渝,絫。

このように、楽浪郡は比較的人口が多い豊かな地域だったように見える。

何よりも南の方が暖かく降水量が多く食物も多い。養える人の数も多い。

 

では、首都の長安はどのくらいか?地理志最初の方に記載がある。

京兆尹,元始二年戶十九萬五千七百二,口六十八萬二千四百六十八。縣十二:長安,新豐,船司空,藍田,華陰,鄭,湖,下邽,南陵,奉明,霸陵,杜陵。

長安周辺は「京兆尹」と呼ぶらしい。人口は68万人であってやはり多い。

多いが、他を圧倒するほど多くはない。植民地みたいなものの楽浪郡玄菟郡を合わせた程度の人口だ。

これでは、地方から来た人々を驚かせ服従させることはできない。

そこで、漢の皇帝が住む所としての威厳を保つために、長安を整備して、宮殿を立てた。

 

中国全体では西暦2年に郡・国が103あって、総人口が 5959万4978人だった。

民戶千二百二十三萬三千六十二,口五千九百五十九萬四千九百七十八。漢極盛矣。

この時が漢の極盛だそうだ。この後は衰退したのか。

因みにこの数は、各郡・国の人口を合計した数と200万人ほど違う。漢のお役人は計算が不得意だっただろうか。

当時算盤という便利なものがあったかどうか。

籌算(ちゅうさん)という、箸みたいな棒を使った計算は戦国時代からあったらしい。

筆算をするとき数字を縦に書いた(大きな桁の数を上に書いた)だろうか。そうするといかにも計算がやりにくそうだが、単に慣れの問題だろうか。

等々、想像すると可笑しい。

 

ともかく、

西暦2年に約6000万の人口があったというのは大変なことだ。

例えば日本では、小山さん(小山修三「縄文時代中公新書)が西暦200年の日本の人口を60万人としている。

中国に比べて、100倍の人口の差があったことになる。 

 

世界的には、Angus Maddisonの試算があって、インドが7500万人だ。

インドを見直さねばならない。

ただ、インドが統一されれば強力な国家となっただろうが、歴史上インドが統一国家を形成したことはなかったといっていい。

 

当時のローマ帝国全域の人口は西暦14年に4550万人だったらしい(Wikipedia ローマ帝国の人口学)。

 

当時の人口は食料の生産高で限定され、食料の生産高がGDPつまり国力そのものだと考えると、

インド:中国:ローマ帝国=7500:6000:4550

となる。

う~ん、なんとなく納得できそうな、ちょっと意外そうな数字だ。

 

漢書地理志に戻る。

今日我々が手にする漢書地理志は、上記に例示した最小限のシンプルなものではなく、各時代の註がいろいろ付いたものらしい。以下の帯方郡の位置についての考察はそうした註を基にしていた。

それはそれで意味あるとは思うが、そうした註にあまりこだわり過ぎないようにしたい。

 

このように、漢代に国勢調査が行われていた。目的は税を取るためだろう。だから、結構厳密に人数や戸数を数えたに違いない。

地方の役人は一戸一戸回って人数を数えただろう。漢の時代のように、中央政府の力が強いうちは人々も「しょうがねえな。」と従っただろうが、権力が弱くなると税金逃れが多くなったに違いない。

実際、晋書地理志によると、

前漢末(西暦2年)  5959万4978人

後漢中(西暦157年) 5648万6856人

西晋初(西暦280年) 1616万3863人

とあって、三国時代の戦乱の後に人口が1/3に減っている。

実際に、人口が1/3に減るような事があるだろうか?

気候の長期的変化、とくに寒冷化や、ペストとか天然痘とかの感染症が原因となる可能性はあるかもしれない。

一方ただ単に、西晋という国に帰属する人の数が減ったという可能性もあると思う。

西晋の前の三国志の頃の呉の国の歴史には、山賊というのがかなり頻繁に登場する。呉の国はそれに大いに悩まされた。

こうした連中は当然国家に帰属しないわけだから、国勢調査の対象ではなく、上記人口には組み込まれない。

 

 7月16日の記事に、少し訂正したい。

 7月16日の記事に、少し訂正したい。

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 Wikipedia帯方郡」に、「『帯水、西して帯方に至り海に入る』と漢書地理志にある」というのをそのまま引用した。

しかし、ちょっと不安になったから、実際に漢書地理志にあたってみた。

そうしたら、『帯水、西して帯方に至り海に入る』という文章がない(??)。

『帯水』という言葉も検索にかからない。

また、上記記事で大同江に比定した『列水』という言葉も検索でみつからない。

 

ということで、少し困っている。

 

私が見ている漢書地理志は中文Wikipedia に掲載されている原文だ。

それ以外にも漢書地理志の別版があるかもしれない。例えば、後世の註が加えられた版があるかもしれない。

ネットで調べると、『帯水、西して帯方に至り海に入る』という文を根拠にいろいろ議論している記事が散見されるから、この文はどこかに存在するに違いない。ただ、ネットのこうした記事で原文資料の所在を明らかにしているものがなかった。

つまり、Reference(参考文献)を私が探し切れていない。

 

科学技術の研究開発をやってきた私としては、Reference(参考文献)を整備する事は常識中の常識のはずだったが、今回ちょっと早とちりしてしまった。

反省している。

と同時に、まあゆっくりと問題の資料がみつかるのを待つこととする。