わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-10 好太王碑に記されていないもの

好太王碑に記載がある最後の戦いは西暦410年の東扶余の制圧だ。

東扶余はもとは高句麗の始祖である鄒牟王の属民だったが、叛いたから討った、とある。

随分古いことを持出す。東扶余から見れば言いがかりと言える。

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好太王自ら軍を率いたから、好太王にとって重要性が高かった。

高句麗は北扶余の出目だとしている。従ってどの部分であろうと扶余の制圧は故郷に錦を飾るようなものかもしれない。

帰途に王を慕って従うものが多かった、とある。

 

以上で、好太王碑に記載されている王の戦歴は終わる。

 

実は、碑に記載がないが、好太王は、春秋戦国時代の燕の地を支配する慕容氏の後燕とも戦っていて、遼東半島を奪ったらしい。

ところがその記事は好太王碑にはない。

なぜ、ないか?

後燕高句麗から見ると、中華を支配する帝国であって、歴史上の立場としては高句麗朝貢するべき対象だった。

高句麗好太王碑が記す世界観は、徳のある高句麗の王がその徳により周辺の蛮族を教化し従わせるものだった。

従って、高句麗王よりも目上の存在である後燕は邪魔者であり、碑に記載してはならないものだった。

以上の理由により、後燕については一切碑に記載がない。

 

これを、学者は高句麗の「小中華思想」と呼ぶ。

 

ご存じのとおり「中華思想」というのは、徳のある中国の皇帝がその徳により周辺の蛮族を感化し従わせるものだった。

高句麗は周辺の蛮族だったが「中華思想」を都合よく受け容れて「中国の皇帝」を「高句麗王」に置き替えてしまった。これが「小中華思想」だ。

 

小中華思想」は別に高句麗だけのものではない。

おそらく、東夷と呼ばれる国々のほとんどが「小中華思想」にかぶれていたと思う。

百済新羅もそれぞれ「小中華思想」を抱いてお互いに相手を見下していたと思う。

日本もまた同様だ。

日本書紀には、高句麗新羅百済が「朝貢した」との記事がある。

それは日本側がそう解釈しただけであり、相手側は日本を教化するつもりだったろう。

おそらく、一方で戦いながら他方で倭を含めて4国はお互いに使節を交換していた。そうしてお互いに相手の使節が「朝貢」してきたと言い合っていたと思う。

 

そういう「小中華思想」の立場からは、中国は不都合な存在だ。

日本でいえば、天皇が唯一絶対の存在であり、その天皇使節が中国に朝貢するなどは「あり得ない」ことだ。

「あり得ない」事ならば無かった事とする。

そういう趣旨で、古事記日本書紀から中国への朝貢の記事が消えてしまった。

さらに、

高句麗との戦いは勝ったり負けたりだったと思うが、そうした対等の関係もまた「小中華思想」の立場からは不都合だから、古事記日本書紀の記事から消えてしまった。

 

話が飛躍し過ぎた。

高句麗の「小中華思想」に戻る。

好太王碑に中華の帝国後燕の記載はないのは、「小中華思想」の立場からは不都合だったから記載しなかった。

高句麗にとって教化すべき蛮族とは、百済であり、新羅だった。

では、倭は、高句麗にとって教化すべき蛮族だったろうか?

おそらくそうだった。

 

日本書紀に記載がある。

応神天皇のとき高句麗王(書紀では高麗王となっている。)の使いが朝貢した。

その書に「高麗の王、日本国(やまとのくに)に教ふ(おしふ)」とあったのを読んで太子の「うじのわきいらつこ」が怒ってその書を破り捨てた。

 

上記で「教ふ」というのがまさに「教化」の意味ととれる。

高句麗側は日本に「教える」つもりで使者を送った。

太子の「うじのわきいらつこ」は、漢文を読めるようになった最初の支配層かもしれない。高句麗の書を読んで、日本側からみればその「傲慢さ」にびっくりし大いに怒った。

なお、上記で「朝貢」と記載するのは日本側が勝手にそう解釈しただけであって、高句麗側は決して朝貢したつもりではない。

 

最後に、

好太王は39歳でなくなった。

西暦391年に18歳で即位したから、亡くなった年は西暦412年プラスマイナス1年と計算できる。

プラスマイナス1年を加えたのは、満年齢か数え年齢、誕生月日、死亡月日によってずれるからだ。

西暦414年に息子の長寿王が好太王碑を建立した。これは好太王碑に記載がある。

その1年前(西暦413年)、晋書に

是歲高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物  [晋書帝紀10巻安帝]

とある。

西暦413年に、高句麗倭国西南夷、銅頭大師(?)が晋に朝貢した。

 

つまり、好太王碑の時代の終了とともに倭の五王の時代へ突入する。

 

 

高句麗好太王碑-9 -百済再侵略(西暦407年)

帯方地方へ進出した倭を掃蕩してから3年後の西暦407年に、高句麗好太王はようやく軍を百済に向けた。

百済が誓いに反して倭と通じてから8年の歳月が経った。

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7年前には新羅救援のために朝鮮半島南端までの大遠征をやったし、百済を侵略するには十分な準備が必要だった。

好太王は自らは動かずに、歩兵・騎兵合わせて5万の軍を派遣した。

鎧一万余、軍資機械無数を獲得した。6城(王健群さんが脱字の数から推計)を破った。

11年前の百済侵略では58城を奪取しているから、今回の戦果はそれに比べるとかなりしょぼい。

そもそも百済の首都を落としていない。

好太王碑には都合の悪いことは記されていないが、おそらく百済側も頑強に抵抗した。

 

好太王碑に記載されている百済との戦いはここで終わる。

これを機会に、高句麗百済の戦いをまとめてみたい。

 

西暦371年、百済近肖古王の時に、高句麗が領有する平壌城を攻め落とす。戦いの最中に高句麗の故国原王が戦死した。故国原王は好太王の祖父にあたる。好太王はまだ生まれていないが、この記憶は高句麗百済への復讐心をあおったに違いない。

西暦396年、好太王百済の58城を奪う。(好太王碑記事)

西暦407年、好太王百済の6城を奪う。(好太王碑記事)

西暦427年、高句麗長寿王が首都を集安から平壌に移す。

西暦475年、高句麗長寿王が百済の首都漢城(いまのソウルか?)を陥落させる。百済が一時滅亡し、南の熊津に逃れる。

 

このように高句麗百済が争っている間に、3国のうちの最弱の新羅は南方のへき地の慶州にあってじっくり実力をつけていった。

 

高句麗好太王碑-8 -倭寇掃蕩(西暦404年)

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新羅救援の大作戦から4年程は割と平穏だったらしい。

しかし、西暦404年に倭が不法にも帯方地方に侵入した。

原文は以下だ。

十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界

ここで「不軌」という言葉が気になる。王健群さんの解釈では「法制に基づかないで事を運ぶこと。両国の正常な関係を破壊したことを指す。」とある。

ということは、倭と高句麗との間で話し合いが行われ、約束事があったことを暗示する。

現代でも、戦いの後では、必ず条約を結ぶ。それをしないといつまでも戦争状態が続くこととなって敗者だけでなく勝者にも負担が大きい。

相手の戦闘能力を100%失わせれば話は別だが、海の倭と陸の高句麗の間で互いに相手を完璧に叩き潰すことは難しい。

倭と高句麗の間の条約(約束事)がどんなものかはわからない。好太王碑にはただ「不軌」という語により条約のようなものがあった事を暗示するだけだ。

 

「帯方界」はもとの帯方郡の地帯だろう。帯方郡がどこにあったかは未だ明らかでないようだ。

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帯方地方は、90年程前から既に高句麗の領地だ。

そこに倭が侵入してきた。

百済新羅に倭が侵入するのとはわけが違う。

5年前から百済が倭と通じているとの情報はあった。しかし4年前に新羅救援の大作戦を行ったために、兵を休める必要があって、百済方面がおろそかになった。

その間隙をついて倭がいつの間にか、百済に浸透し、さらに高句麗の領土である帯方地方まで進出してきた。

 

好太王はすぐに自ら出動した。

「従平穣」とあるから平壌より出動した。既に平壌高句麗の軍事拠点が出来上がっていただろう。首都はまだ朝鮮の北端の集安だが、高句麗の拠点が徐々に南に移っている。

高句麗の首都が平壌に移るのは次の長寿王の時だ。

 

好太王碑の表現では、「倭寇」を潰敗させ無数の敵を殺した、とある。

今回の戦いはいわば侵入してきた敵を撃退することであって、戦果はあまりない。

好太王碑の記事も比較的短い。

 

好太王の怒りは百済に向けられる。それが軍事行動として実現するのは3年後だ。

 

例によって、古事記には上記のような記述はない。

三国史記百済本紀には倭と百済との友好関係を示す記事がいくつかある。

例示すると:

397年、百済王は太子を人質として倭に送った。

402年、倭の大きな珠を求めた。

403年、王は倭の使者を厚く遇した。

405年、百済王が死に、倭王は人質の太子に百人の兵士をつけて送った。

以上の記事のすべてが事実か疑問だがおおむね友好的だったと見える。

高句麗好太王碑-7 新羅救援・倭と激突(西暦400年)

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さて、高句麗好太王は西暦400年にようやく倭と戦うこととなる。

その前年に百済が誓いに反して、倭と通じた。

好太王は立腹したに違いない。しかし平壌まで巡回したに過ぎない。戦闘の準備ができていなかった。

そこへ新羅の使いが来た。「倭人新羅の地に満ちている。城池を破壊し民を屈服させている。」として王に助けを請うた。王はその忠誠をたたえ、恩慈を施し、密計を与えて使いを返した。

ここの書きっぷりでは、新羅高句麗に対して(少なくとも表面的には)従順だった。百済が反抗的だったから、好太王は余計に新羅を「愛いやつ」と思っただろう。

密計を授けて帰らせた。

 

その密計が翌西暦400年の大軍事行動だ。

ただし、この部分は好太王碑の第2面と第3面の角部にあたり碑の上部が欠けて脱字が多いから正確な文章が明らかでない。

できるだけ明らかなところだけで記載する。

 

400年に、歩兵と騎馬の高句麗軍5万を新羅城に秘密裏に向かわせた。好太王は行かない。百済の動きを警戒したのだろう。

ところで、高句麗の集安から新羅の慶州まで直線距離で670キロくらいある。

日本で言えば福岡から浜松くらいだ。

陸の道を用いれば1000キロ近いだろう。歩兵が一日10キロで進んだとして100日かかる。

どのようなルートを通っただろうか。

時代は下って、豊臣秀吉朝鮮侵略において、加藤清正軍は釜山から朝鮮半島の背骨を通ってソウルにいたり、そこから平壌に侵攻した。

おそらくその逆を行った。ただし、ソウル近辺には百済がいるから、百済に動きを知られないようにソウルは迂回したに違いない。

 

高句麗軍が来て倭(ここでは「倭賊」と記述した。)が退いた。その倭を追って「任那加羅」に至った。

初めて、高句麗が倭と激突した。

ここで「任那加羅」が出てくる。任那加羅朝鮮半島最南端にある。そこまで高句麗軍が進出したことになる。

ここでの倭は陸路で退いたことになるだろうか、よくわからない。

王健群さんの釈文では「自倭背急追至任那加羅」とあって、倭の背中を急追して任那加羅に至った、と読めそうだから、陸路かもしれない。

倭は海の戦いに強みがある。高句麗は陸の戦いに強い。高句麗が、倭の海への退路を断つなどの策略を用いて陸の戦いに持ち込んだのかもしれない。

城を抜いて、羅人(新羅人)の駐屯兵に守らせた(「安羅人戌兵」)。

羅人は新羅人の事だ。守らせたは「安」の字を使う。

以下、碑文には城を抜く度に「安羅人戌兵」が出てくる。計3回出る。

「安羅人戌兵」を安羅という国の人が高句麗に逆襲したと解釈する説もあるけれど、それでは3回も安羅人が出てきて大活躍することになる。好太王碑の記載としてはふさわしくないと思う。

王健群さんの解釈が自然だ。

ともかく、新羅救援の軍事行動では、高句麗軍は倭に「占領」された城を取り返しては新羅人に守らせた。

高句麗軍は自分のものとしなかった。

ここはできなかったと解釈する方が自然だ。

抜いた城を自分のものとするなら、治安のためにそれらの城に軍を残さねばならない。高句麗軍が5万といえども、それぞれの城に軍の一部を残すと高句麗軍の力が弱まる。

また、好太王碑では高句麗軍が100%主導して軍事行動を起こしたように記述するけれど、実際は新羅軍との共同作戦だった。先の5万というのも、新羅軍を臣下として加えた結果の5万だったかもしれない。

城を抜いたあとは、新羅軍がその城を守る。

新羅の王を「寐錦」と記載する。これも蔑称らしい。

「寐錦」がこれを機に朝貢した、という記述で終わる。

 

ところで、高句麗は倭を追い出しては新羅に与えている。

随分気のいい話と見える。

ここは、高句麗百済新羅、倭の4国関係でみるとわかりやすい。

おそらく、高句麗新羅を見下してはいたが同盟相手とみなしていた。

そうして、高句麗百済を攻める時は新羅にも百済を攻めさせただろう。

新羅にとっては、当時はまだ上記4国のうちの最弱だった。そこで悔しい事ではあるが、高句麗と結んで生き残ろうとした。

日本で言えば、織田信長徳川家康の関係に近かった。

浅井・朝倉との姉川の戦いでは徳川が織田に加勢した。

後に武田氏が徳川領の長篠に攻め込んだ時には、織田が加勢して撃退した。

このように、多国間で戦いがある時代には、どこかと同盟する必要があった。

そうして同盟を維持するためには、同盟相手に何かを与えなければならない。

 

日本書紀継体天皇のとき大友金村が任那4県を百済に割譲したとある。

これもまた、同盟関係を維持するためにやったことだろう。

なお、任那4県割譲の記事は古事記には記載がない。

 

以上が西暦400年の高句麗と倭の戦いだ。

 

古事記では、西暦400年は仁徳天皇の治世の時代だ。

高句麗との戦いの記載は全くない。

古事記には、そもそも外交関係の記事はほとんど見当たらない。

これはどういうことだろうか?

今のところ?(question mark) のままにする。

 

朝鮮の三国史記新羅本紀には、

393年倭人が来て金城を5日包囲した。

402年倭国に王の子を人質として差出した。

405年倭兵が明活城を攻める。

407年春に倭人が東辺を攻め、夏に南辺を攻める。

408年新羅王が倭の本拠の対馬を攻めようとしたが家臣に諫められて止めた。

といった記事がある。

こうした記事をみると、倭は新羅をかなり侵略していたようだ。

新羅は、基本的には高句麗と同盟して倭に対抗しようとしたが、場合によっては存続のために倭に屈することもあった。

 

こうした侵略を行ってきた倭とは誰だろうか?

どうもやまと朝廷自体ではないように見える。

九州一帯の島々に住む豪族だったかもしれない。

 

 

 

高句麗好太王碑-6 百済威嚇(西暦398年)

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高句麗好太王の第3戦(西暦398年)は2年前の百済侵略の引続きみたいなものだ。

 

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今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。

 

第3戦の文は短いから全文を記す:

 

八年戊戌教遣偏師観帛慎土谷因便抄得莫斯羅城加太羅谷男女三百餘人自此以来朝貢論事

 

この文の中に百済(百残)という文字はない。

厳密に言うと百済を侵略したかどうかはわからない。しかし、「莫斯羅城」や「加太羅谷」という地名は百済らしい。また前後の文脈から百済に対する行為とみていい。

今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。

今回の軍は百済北辺を侵略しただろうが、軍の根拠地はどこだろうか?

碑には何も書いていないから推測でしかないけれど、おそらく昔の楽浪郡平壌辺りに駐屯する軍が動いたのだろう。

戦果としては「男女三百餘人」だ。あまり大したことはない。城も「莫斯羅城」を1つ獲ったか獲らないかだ。

これからも、遠路はるばる集安からやってくるような大規模な戦いとは言えそうもない。

 

ただ「自此以来朝貢論事」(これより以来(百済)が朝貢し命令に服した。)とあるから、おそらく百済王は震えあがって、高句麗朝貢し臣下の礼をとった。

百済にとっては、領土の北辺を高句麗軍がうろついているわけだから、(2年前の戦いで58城も獲られたトラウマもあるだろうし、)ものすごく心配だろう。

高句麗朝貢するぐらいでこの心配がいくらかでも解消するならいくらでも朝貢する。

 

以上が西暦398年の戦いだ。

 

同じ頃、古事記によれば倭では仁徳天皇の治世だ。

仁徳天皇は国内の治世に努めたとの記事はあるけれど、外交に関する記事は古事記にはない。

ただ、枯野という船の記事がある。この船は巨大な木を切り倒して作った、とある。

さすがにこの頃は卑弥呼の頃のような丸木舟ではないだろうが、それでも大きな木を必要とする、準構造船だったろうか?
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また、朝鮮半島三国史記には、西暦397年に百済の国王が倭国と友好関係を結び太子の腆支人質として送ったとの記述がある。

百済はこのように倭と友好関係を持ちながら、高句麗に臣下の礼を取らねばならなかった。二つの強国に挟まれた国の悲哀と言える。

高句麗好太王碑-5 -百済侵略(西暦396年)

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好太王の第2戦目は百済侵略であってそこに「倭」がちょっとだけ顔を出す。

 

少し長いが第2戦部分の初め3行の碑文を示す。碑文は例によって王健群さんの釈文を用いる。

1)百残新羅舊是属民由來朝貢

百済[百残としたのは蔑視した。]新羅はもと高句麗の属民で朝貢していた。)

2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民

(しかるに、倭が辛卯年(西暦391年)以来渡海し百済□□新羅を破って臣民とした。□□は解読できない2文字。)

3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻

(そこで、好太王の6年・丙申年(西暦396年)に王みずから水軍を率いて百済軍(残國軍)を討伐し南に攻めた。)

 以上が第2戦の初め3行だ。その後に獲った城の名前がずらずら書いてある。

 

ここで、1)行から見る。

1)百残新羅舊是属民由來朝貢

百済新羅がもとは高句麗の属民であり朝貢していた、というのは本当だろうか?

高句麗百済領を奪い取った事を正当化する理由付けにすぎないように見える。

ただ、高句麗は西暦313年に楽浪郡帯方郡に進出している。西晋の楽浪・帯方への支配力が弱くなった隙をついた。

それより前の三国志魏書東夷伝(この中に魏志倭人伝も含む)には百済新羅の前身である馬韓辰韓が楽浪・帯方に朝貢しているとある。

従って、楽浪・帯方を手中にした高句麗は、百済新羅朝貢を受ける立場にあるべきだ、という理屈は成り立ちうる。

 

好太王碑では百済は「百残」として一貫して蔑視している。王健群さんによると、「残」は悪い字であり、良い字である「済」の反対語だそうだ。つまりわざと反対語を用いて貶めた。

昔、前漢を滅ぼした王莽が高句麗を攻略した時に、「下句麗」と名前を変えさせた。

それをやられた高句麗は、同じ行為を百済に対して行った。

 

次に、2)行は有名な「辛卯年条」だ。

2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民

この1文をもって、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、とする日本の学者が多くいた。

特に、日本に最初に「拓本」(正確には拓本でなく紙を碑に押し付けて字の輪郭を押し出し、輪郭に沿って墨を塗って字を浮き立たせたもの。碑の表面の凸凹が大きくて拓本を取りにくい時に使う。墨本といったりするらしい。)を持ち込んだ酒匂という人が旧日本軍のスパイだったことも、その後の混乱に拍車をかけた。

余談だが、酒匂本は墨本制作時に誤字が少し発生した。しかし、数ある「拓本」のなかで字が最もくっきりしていて見栄えがいい。酒匂スパイは余程金を積んだに違いない。

第二次大戦後に韓国・朝鮮の学者は、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、というような事はあり得ない、と反発した。

ある学者は、好太王碑に石灰が塗布されているのを見て、旧日本軍が好太王碑の碑文を捏造した、とまで言った。いわゆる石灰塗布作戦だ。これは現在否定されている。

こうした議論はいずれも、当時出回っていた拓本を基にしていた。

そこで、中国人の王健群さんが実地に赴き好太王碑の碑文を半年ほどかけて解読した。

その時、石灰を塗布したのは、地元の拓本づくりを職業とする住民だとわかった。表面をできるだけ石灰で平らにして拓本を取りやすくした、ということらしい。

その、石灰は1年ももたないために現状はかなり剥げ落ちているらしい。

 

辛卯年(西暦391年)以来倭が進出した、とある。

この頃の朝鮮半島における倭の動きの分かる資料は他にあるだろうか?

かなり後世の記述であって真偽性は割引く必要があるが

古事記(西暦712年成立)や

日本書紀(西暦720年成立)と朝鮮半島

三国史記(西暦1145年成立)がある。

 

古事記には、神功皇后新羅征討の記事がある。

仲哀天皇崩御後に神功皇后新羅を征討した。古事記では仲哀天皇崩御年が壬戌の年(西暦362年)だから古事記の記述に基づくならその後数年にあった。

征討とはいっても、金銀などの宝が目的らしく、大船団で新羅に押し寄せて、新羅の王を屈服させたら、さっさと帰っているようだ。

日本書紀も同様な記事だが、神功皇后卑弥呼に比定するという120年(干支で言うと2回り。同じ干支は60年毎に現れる。)の間違いを犯している。

 

朝鮮側の資料として、三国史記新羅本紀には、西暦364年に「倭の兵が大勢できた。多数で直進してくるのを伏兵が討って敗走させた。」とある。

また同じく新羅本紀に、西暦393年には、「倭人がきて金城を5日間包囲した。」とある。

さらに新羅本紀にやや後年だが、西暦408年に

倭人対馬を本拠にして新羅を攻撃する準備をしている。新羅国王が兵站線を逆襲しようと考えたが、部下に『大海を渡って他国を攻撃するのは危険だ』といさめられて止めた。」とある。

この記事で面白いのは、倭の本拠は対馬であって、朝鮮半島ではない点だ。倭は朝鮮半島に根拠地をもっていない。

しかし、魏志倭人伝では、倭の北岸は狗邪韓國であって、朝鮮半島倭人が住み着いていた。150年後にもおそらく住み着いていただろうが、そこは本拠地にはなりえなかったと読める。

このように、倭が新羅を攻撃した記事はいくつかあるが、領土的野心はあまり見られない。

 

百済との戦いに関する記事はないけれど、倭が新羅のみならず百済へも進出している可能性は十分ある。百済とは平和的関係が多かったかもしれない。

 

以上のように、好太王の頃に、倭は朝鮮半島南部に出没していた。

 

魏志倭人伝の頃に交易をしていた倭人はそれから150年経って、人口も増え、船や武器の技術も進化して、より攻撃的になっていたかもしれない。

ただ、倭人はやはり海の民だ。基本的に船で海から攻撃して不利になると海へ戻る。陸の戦いはあまり得意ではない。

 

倭が朝鮮半島南部に出没するには、上記に示したように西暦391年以前からだ。

それなのに、なぜ好太王碑では西暦391年以来と限定したか?

詳しくはわからないが、西暦391年が好太王の即位の年であることが意味がありそうだ。

好太王碑は好太王の事績を顕彰する。より話をドラマチックにするために、好太王の在位中に倭が攻めてきた、としたかったかもしれない。

 

 次に、倭が渡海して百済新羅を破り、臣民とした、とある。

この「渡海」という語は魏志倭人伝では、朝鮮半島から対馬へ大海を渡った時に使われた。

好太王碑の「渡海」は逆方向に対馬から朝鮮半島へ渡った事を意味するようにも見える。

しかし、朝鮮半島の北の端に本拠を持つ好太王がわざわざ1000キロも離れた半島南端の倭の動きを把握するだろうか?

「渡海」とは単に海の方からやってきたという意味だと思う。

 

倭は海の道を自由に使って突然に百済新羅の住民を襲った。

襲われた住民は分が悪い時はとりあえず屈服するしかないだろう。

しかし、そうした屈服は、高句麗から見ると、百済新羅が裏切ったと見えただろう。それが臣民とした、という表現に見える。

裏切ったから高句麗としては攻める理由ができた。

 

 そうして3)に至る。

3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻

倭が西暦391年に進出して以来5年経って西暦396年にようやく好太王が自ら動き出した。

ここで「水軍」を率いて百済軍(残国軍)を討ったとある。

「水軍」とは何だろう?騎馬を得意とする高句麗軍がなぜ「水軍」を用いたのか?

ここの「水軍」とは川で使う舟を言うのかもしれない。当時陸上の道はそれほど多くはないから、軍を移動する時にできれば川を使うのが便利だった。例えば、集安から平壌さらに南のソウルへ行くときに、まず鴨緑江を使っただろう。

 

高句麗軍の武器は馬だから、馬は外せない。馬を運べるほど大きい舟が当時既にあったと想像したい。

大きいといっても、例えば矢切の渡し[1]の舟程度で馬が運べる。実際昔は矢切の渡しの賃料が「1人3文。馬5文。」と記録にある。川であればそんなに大きな舟でなくても馬が運べる。

[1]  https://www.matsudo-kankou.jp/yakirinowatashi/

また、ここでわざわざ「水軍」と記したのは高句麗にとって舟が当時の最新兵器だったから、とも考えられる。

 

そして攻めたのは百済だ。

新羅は攻めていない。また倭も攻めていない。

なぜ百済か?

実は高句麗百済の土地と人を欲しかった。

好太王よりも150年前だが、三国志魏書東夷伝にあるように百済つまり昔の馬韓は人口が高句麗の5倍くらいあった。

人口が多いということは、作物が多く取れることを意味する。そうした土地と人を獲るのが目的だった。

好太王百済の城と村を次々と奪っていく。

そこには、倭との戦いは一切ない。倭が進出したから攻める、というのは単に理由付けでしかない。

本音は百済の土地と人を奪うことだ。

 

一方、新羅高句麗は侵略しなかった。なぜか?

まず遠い。新羅の首都は慶州だからほぼ朝鮮半島の南の端だ。そんなところまで遠征したくない。

次に新羅は人口も多くない。だから侵略する旨味がない。

むしろ遠交近攻策を用いて新羅を手なずけて百済を討ちたいと考えた。

 

以上で、好太王の第2戦目の前半部を終わる。

 

後半部は簡単に済ます。

好太王が、百済の国城(おそらく首都)に迫った。

たまらず百済は迎え撃った。

好太王百済が刃向かった事に赫怒して、川を渡って城を包囲した。

残主(百残の主:百済王を蔑んで言った。)は困惑し、男女奴隷一千人と細布千匹を差出し、奴客となると誓った。

好太王はこれを許した。

この戦いで好太王百済の北辺を侵略して、58城・700村を獲得した。

 

百済の首都を包囲までした。首都はおそらく今のソウルに近いところにあった。

しかし、首都を陥落させて百済を滅ぼすまでには至らなかった。

軍も長距離の遠征で疲弊してきたし、58城も獲得し、戦利品も多くえたから、とりあえず今回はこれで終わらせよう、といった気分だったろう。

 

以上が西暦396年の百済侵略だ。

 

西暦396年の百済侵略の中で「倭」という語は「辛卯年条」に一度しか出てこない。

倭が百済を臣民としたから百済を攻めた、という理屈だが、そこに倭との戦いは記載されていない。あくまで高句麗百済の戦いだ。

ここから、倭というのは百済を攻めるための理由付けでしかなくいわゆるトリックスターtrickster.日本語では引き立て役?)だという人もいる。

トリックスターは言い過ぎだと思うが、他方で「辛卯年条」の一文のみを取上げて倭が朝鮮半島の南を支配していたというのも言い過ぎと考える。

 

倭はあくまで海の民であって、春になると朝鮮半島沿岸に現れて、交易をしたり、時に暴力を使って物を奪ったりするけれど、冬が近づく前にさっさと帰ってしまう。冬の対馬海峡を渡海するのは海の民の倭人でも危険だった。

 

百済の王は、倭と仲良くすることで、倭の略奪から身を守ろうとした。

しかし、そうした行為は高句麗にとっては背信行為と考えられた。

そこで高句麗が怒って攻めてくればそれに屈服する。

百済にとっては、倭が来れば倭に従い、高句麗がくれば高句麗に屈服するのが生き残る方法だったと思う。

ただ百済は、どちらかといえば倭に友好的だった。

それは、高句麗の真の意図が百済を呑込む事だから、いやでも倭に頼らざるを得なかった。

 

以上で西暦396年の好太王百済侵略を終わるが、

最後に日本書紀応神天皇の治世の記事に触れる。

古事記には以下の記事はない。

古事記記載の崩御年では応神天皇の治世は西暦362年から西暦394年だ。

 

応神天皇の治世の時に、高麗(こま:高句麗の事)の王から朝貢の使者が来た。その手紙に「高麗のきみ、やまとのくにに教ふ(教える)」とあった。中国語に堪能な天皇の太子:「うじのわきのいらつこ」がそれを無礼だとして手紙を破った。

 

この記事から当時の外交の様子が推し量れる。

第1に、高句麗とは戦いながらも外交もあった。戦争しながらでも使節の交換はした。それが当時の外交の常識だった。

例えばすこし後世の例だが、新羅は唐に朝貢しいかにも従順そうにしながら、他方で唐の朝鮮半島の占領地を奪い取っていった。

これを面従腹背と非難もできるが、小国が大国の傍らで生き延びるための術だったともいえる。

第2に「教える」という上から目線から推察すると、高句麗は倭を見下していた。だからやまとの太子が怒った。

一方、日本書紀朝貢という語から、倭の側からは高句麗を見下している。

つまり、倭と高句麗は、(少なくとも国内的には、)お互いに相手を見下す関係と言える。

外交とはそうしたものかもしれない。

 

その名残は現在でも国と国との条約名に残る。

例えば日米安保条約は、日本では

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

と日本を先にいい、アメリカでは

「Security Treaty Between the United States and Japan」

と言って、the United States を先に言う。

この国の順が逆になると、ほんの少し国と国の関係がよくなるか、とあらぬ事を思いつく。

高句麗好太王碑-4 碑麗討伐(西暦395)

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ようやく、好太王の戦歴をたどる。初戦は碑麗だ。

好太王碑には

永樂五年歳在乙未王以碑麗不婦□人躬卒往討

とある。好太王の5年つまり乙未(西暦395年)の年に碑麗が(高句麗)人を返さないから王自ら討った。

好太王は18歳で即位したから、即位後5年で22歳だ。王としての初めての戦いだったろうか。

碑麗がどこにいたか今となっては推測でしかわからない。襄平道(襄平に通じる道)を通って帰ったとあるから、集安から北西に進撃したと考える。

戦果は、「三部洛六七営」を破ったとある。獲得した牛馬羊は数えきれない程という。

ここで「破った」というのは単に破壊したのではなく、戦いに勝って獲得したとの意味のようだ。後の戦歴で城を破る、との表現が出てくる。

今回は城は獲っていない。それほどの戦果でもなさそうだ。

帰りは「遊観」しながら意気揚々と集安に戻っている。

初めての戦いとしては上々のものだったろう。

最初の戦いは、好太王の腕試しみたいなものだったかもしれない。

 

ところで、この頃の倭はどうなっていたか。

古事記には、所々に天皇崩御された年が記載されている。

古事記に記載の崩御年は割と信頼してもいいと私は考える。

それに対して日本書紀に記載の年号は允恭天皇より前は当てにならない、と思う。

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古事記によると応神天皇が西暦394年に崩御されている。上記好太王の碑麗討伐の前年だ。

次は仁徳天皇が即位された。実際にはすんなりと即位ではなく、古事記によると母違いの弟の宇遅能和気郎子(宇治のわきのいらつこ)と天皇位を譲り合っていたらしい。譲り合っていたと古事記にはあるが、天皇位をめぐる争いがあったのだろう。

古事記によれば、仁徳天皇崩御が西暦427年だ。

好太王崩御が西暦413年とされる。

つまり、高句麗好太王が戦っているころは、日本では仁徳天皇の治世だった。

 

しかし、好太王碑には、「倭」「倭寇」「倭賊」という語しかなく、「倭国王」とか「倭王」とか、ましてや倭国の王の名前などは出てこない。

新羅の王は「寐錦」であり、百済の王は「残主」と蔑称されているが一応好太王碑に登場する。

好太王碑の倭には顔が見えない。

 

一方日本側の古事記には高句麗と戦ったなどという記述はまったくない。

一体、好太王の戦った倭とは何者だろうか。

わからないままに、好太王の戦歴を次回から順繰りに見ていく。