わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

2000人が働けば17年で仁徳天皇陵ができた

日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵)を古代の技術で作ったとしたらどのくらいの時間と人が必要か?

そうした試算を1985年に大林組がやっている。

https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_20_idea.html

 

道具としては、鉄製の刃をつけたスキとクワ、それに土砂運搬のモッコぐらいしかない。

ただし、水路を作って、できるだけ船で運ぶことで効率が上がった。

週休一日制(日曜だけ休む)とした。

一日8時間労働と設定している。

以上から、結論を言うと、

最盛期で1850人の人が働いて17年かかるという見積もりだ。

 

この試算された人と時間をどう考えるだろうか?

私は、意外に少ない人数でできると感じた。

例えば、5万人を支配する領主がいたとする。

5万人のうち労働者として働くことのできる人が1万人とする。一所帯5人としてその所帯主を駆り出す計算だ。

その1万人が5人一組となって交代で古墳づくりをするなら、常に2000人が働くこととなる。

ということで、5万人を支配する領主なら17年かけて仁徳天皇陵を作ることができる。

当時の倭には全国で100万-200万人の人口しかいなかったと思う。

 

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 だから、5万人というのは大きな比率を占める。

それでも、近畿地方のかなりの部分を支配すれば作ることができるレベルだと思う。

 

因みに古事記に記す仁徳天皇の在位期間は33年と長い。生前から自らの陵を作り始めたら十分作る時間がある。

 

所で、大山古墳は本当に仁徳天皇の陵だろうか?

古事記仁徳天皇崩御年は427年だ。

考古学的には、大山古墳の作られたのは450(±10)年といわれているからまあ当たらずとも遠からずだ。

 

日本には、古墳が数万とある。よくもそんなにたくさん作れたと思う。

また、それだけのものが、1500年後の現代まで残ったと思う。

ただ、大山古墳でさえも17年で作ることができた。

ということは小さな古墳なら1-2年で作れた。

例えば大山古墳の半分のサイズの古墳を作るとする。

半分でも長さ200m級の十分大きな古墳だ。

サイズが半分なら体積は八分の一になる。

つまり運ぶ土砂の量が八分の一になる。

工期を17年の八分の一とすると約2年と少しでできることとなる。

 

以上、あまりに単純化した計算だが、古墳というのは割と簡単に作ることができる、ことがわかった。

 

 

古事記の天皇の崩御年は、倭の五王の記載と整合する

古事記には所々に註として天皇崩御年を干支で入れている。

最初に崩御年の記載があるのは、第10代崇神天皇であって、

 

天皇(すめらみこと)の御歳(みとし)、一百六十八歳(ももあまりむそぢまりやとせ)。戊寅の年の十二月に崩(かむあが)りましき。御陵(みはか)は山邉の道の勾の岡の上にあり。』(岩波文庫古事記」倉野憲司)

 

とある。この中で『戊寅の年の十二月に崩りましき。』との一文が崩御年を示す。

干支は、同じ名前の年が60年毎に現れる。『戊寅』の年は、西暦198年、258年、318年、378年、、、、、、最近では1998年が対応する。

後の天皇崩御年から逆算すると、318年か、258年が崇神天皇崩御年になる。

 

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 上記の2記事で、古事記記載の崩御年については既に議論している。

ここで、年の記載については日本書紀より古事記が信頼できる理由も述べている。

 

もう一度、上記、古事記の文章を見てほしい。

古事記の文章は全体に「やまと言葉」で書かれている。天皇は「すめらみこと」という。御陵は「みはか」という。

その中で「戊寅」という漢語的表現がいかにも唐突な印象がある。いったいどうしてこのような註が古事記に紛れ込んだのだろうか、と最初私は不思議に思った。

どうやら、歴代の学者もそう思ったらしい。そうして、学者の半分は、これを後世の註とみなして、信用できないとした。

その崩御年の前に168歳というありえない年齢があるのも信用できない理由かもしれない。

 

しかし、残りの半分の方は、古事記崩御年を事実と、あるいは事実に近いとしているようだ。

ここでは、古事記崩御年の記載は歴史の事実か、もう少し中国の史書と比較して考えてみたい。

そこで、中国史書に出てくる倭の5王の記述と古事記崩御年を併記して整合性をみる。

稲荷山古墳から出た刀の銘も併せて記載する。

 

394;応神天皇崩御仁徳天皇即位古事記

    この年に応神天皇崩御された。次は仁徳天皇だ。

413;是歲,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物(晋書帝紀10)
    晉安帝時、倭王遣使朝貢(南史東夷傳)

    この年に、高句麗倭国が並んで方物を献じた。一緒に来たか、

    たまたま同じ時かわからない。私としては、前年(西暦412年)

    に高句麗の好太王が亡くなり長寿王が即位した時点で、高句麗

    倭の一時的和平が成立した。そうして、高句麗の主導で倭が高句

    麗と共に東晋朝貢したというストーリーを想像したい。

    おそらく高句麗は、東晋の皇帝の前で倭を自らの臣下のように扱っ

    たに違いない。倭の使節はそうした高句麗の態度が気に入らず、

    次回からは独自に使節を派遣した、と想像したい。

    南史東夷傳では倭王としている。

421;高祖永初二年,詔曰:「倭萬里修貢遠誠宜甄可賜除授。」

            (宋書夷蛮伝)
425;太祖元嘉二年,又遣司馬曹達奉表獻方物(宋書夷蛮伝)

    以上の記述から倭王仁徳天皇と類推できる。

427;仁徳天皇崩御履中天皇即位古事記

430;七年春正月・・・是月,倭國王遣使獻方物(宋書帝紀

    この年の倭国王は名前の記載がない。

    あったとしたら履中天皇に対応するはずだ。

432;履中天皇崩御反正天皇即位古事記

437;7月に反正天皇崩御允恭天皇即位古事記

438;死,弟立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽(宋書夷蛮伝)

    夏四月己巳,以倭國王為安東將軍(宋書帝紀

    是歲,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物(宋書帝紀

    前年に反正天皇崩御され、この年は允恭天皇の即位した年だ。

    従って、単純に考えると允恭天皇のはずだ。しかし、下の

    443年の記載では、允恭天皇でもあることになる。また、

   珍の弟というのもおかしい。

    ちょっと苦しいかもしれないが、ここは次のように考えたい。

    朝貢使節は、前年の春に出発し、その年の7月に反正天皇崩御

    されたのを知らずに宋の皇帝に謁見した。そこで今の倭王として反正

    天皇の和名を言った。中国側はそれをと名付けた。中国側は、

    間に履中天皇がいたのを知らずに、を念頭に置いて「先王の子か」

    とでも聞いたに違いない。それに対して倭の使節は「いいや、先王

    の弟だ」と答えた。そこで中国側はの弟だと解釈した。

    以上の想像より、は前年に崩御された反正天皇と見たい。

443;倭國王遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王(宋書夷蛮伝)
    是歲,河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。

451;加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。(宋書倭国伝)

    秋七月甲辰,安東將軍倭王進號安東大將軍(宋書帝紀

    以上より、允恭天皇となる

454;允恭天皇崩御安康天皇即位古事記

460;倭國遣使獻方物。

    倭国王の名前がない。あれば安康天皇に対応するはずだ。

462;三月。。。壬寅,以倭國王世子為安東將軍。

   濟死,世子遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子,奕世載 忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」

    安康天皇となる。安康天皇允恭天皇の子だから整合する。

???;安康天皇崩御雄略天皇即位(古事記崩御年の記載なし)

    安康天皇崩御年は古事記に記載がない。前後の記載から462年

    より後で471年より前になる。

471;辛亥年七月...獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)(稲荷山古墳刀)

    稲荷山古墳から出土した刀に年とワカタケル大王の名があった。

    古事記では雄略天皇の和名は「大長谷若建命(オオハツセ

    ワカタケノミコト)」とあるから、ワカタケル大王は雄略天皇

    みていいだろう。従ってこの年に雄略天皇天皇位に

    ついていた。

477;死,弟立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王(宋書夷蛮伝)

    冬十一月己酉,倭國遣使獻方物。(宋書帝紀

    雄略天皇であり、安康天皇の弟であるから整合する。

478;五月戊午,倭國王遣使獻方物,以武為安東大將軍。輔(宋書帝紀

順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,3]裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王

    上記長文の手紙は宋書に載ったくらいだから中国人もよく理解

    できるレベルの中国語なのだろう。見た感じでは、大体四字一組の

    漢文らしい表現になっている。雄略天皇の側近に漢文をとてもよく

    できる者いたに違いない。これだけのものを上表したにもか

    かわらず、の得た称号は「安東大将軍」であって、高句麗の「車騎

    大将軍」はおろか、百済の「鎮東大将軍」よりも下だった。

    雄略天皇は深く失望したに違いない。

    そしておそらく、高句麗の支配する遼東半島に沿い、北朝の支配する

    山東島を伝うという危ない海路を渡らせて、宋に朝貢したところで

    何の益もないと察したのではなかろうか

    つまり宋はあてにならない。

    おそらく、朝貢はこれっきりにした。

    倭は中国皇帝の臣下となって爵位=称号をもらう事を止めた。

    この時をもって中国の冊封体制から独立した。

 

    以後遣隋使・遣唐使の頃になっても中国皇帝の臣下になることは

    避けてきた。

    しかし、中国側は倭を臣下とみなしてくるから、そこに軋轢が生じる。

    そうした軋轢を適当にいなしながらやっていく。

    

    なお、上記文に「裝治船舫」とあるのに着目したい。意味は装備した

    錨などを下ろして、船を海上で固定して、漂流しないようにする事だ。

    こうすることで、高句麗などの敵が陸から攻撃するのを避けた。

    この頃ようやく錨を下すという技術を倭が手に入れた。

    こうした技術があれば、例え騎馬や歩兵を主とする敵が支配する地域

    の沿岸でも比較的安全に航行できる。

    もちろん敵が船を操る技術をもって攻めてきたら危ないけれど。

479;南斉成立。南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(南斉書倭国伝)

    梁が滅び、南斉が成立した。祝賀として、の称号を格上げした。

    おそらく新王朝が勝手に格上げした。使節を派遣したかどうか

    わからない。

    私の推察では雄略天皇はもう新王朝には関心がないから、

    使節は送らなかった。

489;雄略天皇崩御古事記

    大活躍した雄略天皇崩御された。しかしそのことは中国南朝には

    知らされていないから、次の502年の記述となる。

502;梁成立。4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王征東大将軍に進号する。(梁書武帝紀)

    これも新王朝の成立の祝賀として、の称号を格上げした。しか

    しつま雄略天皇は既に亡くなっている。しかし中国側はそれを

    知らない。この事実から、倭は使節を派遣していないことがわかる。

    梁の『貢職図』または『職貢図』というのがある。ウィキペディア

    その図が掲載されている。世界各国から梁に朝貢した使節の人物像が

    描かれている。この年の祝賀会に朝貢した使節を描いたのかもしれ

    ない。

    そこの倭の「使節」は上半身裸の上に黒い布をまとって、実に貧相な

    姿に描かれている。裸足でもある。

    対して、百済使節は中国流の立派な身なりをしている。

    おそらく、倭から使節が来ないから、仮にも中華の帝国としての

    梁の面子を保つために、その辺に(交易あるいは海賊目的で)うろ

    うろしている倭人と思しき人間をつかまえて、使節に仕立てた、

    と想像する。

 

以上、

讃=仁徳天皇

珍=(故)反正天皇

濟=允恭天皇

興=安康天皇

武=雄略天皇

と比較的自然な対応関係ができた。

 

学者によっては、あまりに対応関係が良すぎるから、誰かが中国の史書を知って

古事記崩御年の注釈を加えた、という。

しかし、中国の史書の内容だけから、対応する天皇とその崩御年を想像できるだろうか?

古事記崩御年を素直に受け取って考察する方が生産的だと感じる。

 

古事記崩御年のある天皇は、古い所では、中国や朝鮮の先進地(楽浪郡など)と接触があった時が多い。

おそらく、中国や朝鮮の先進地から年の数え方として倭が干支を習った。

その干支を覚えている間はそれをもって天皇崩御年などを、語り部が暗唱した。やまと言葉を再現できる文字は当時まだない。

しかし、干支は結構数え方が難しい。なかなか身につかない。

中国や朝鮮の先進地との交流が途絶えたり、国内が乱れて干支の数え方に習熟した人がいなくなると、干支の数え方は人々の頭の中から容易に消えてしまった。

そうした繰り返しが、天皇崩御年が一部にしかない結果となった。

干支が 定着するのは31代用明天皇(西暦587年崩御)からと思う。

というのは、用明天皇からようやく古事記日本書紀天皇崩御年が一致するからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

高句麗語は日本語の兄弟言語だ

いち に さん し ご ろく しち はち く じゅう 

と日本語では数える。一方で、

ひとつ ふたつ みっつ よっつ いつつ むっつ ななつ やっつ ここのつ とお

とも数える。これは、

ひい ふう みい よお いつ むう なな やあ ここ とお

という言い方にもなる。古事記ではこの数え方をする。

このように二通りの言い方が今の日本語にはある。それを冗長と考えることもできるが、日本語に奥深さを与えているのも事実だ。

私はこのような冗長さが好きだ。

 

所でこの二つの言い方の起源はどこにあるだろうか?

「いち に さん ...」の方は明らかに中国語からきている。麻雀をやっているとよくわかるが中国語では

yi liang san si wu liu qi ba jiu shi

と数える。

 

ではもう一つの

「ひとつ ふたつ みっつ ・・・」はどこからきているだろうか?

こうした数え方は言語の基本だから、数え方の類似する言語を追っていけば日本語の源流にたどり着くはずだ。

ところがこれが一筋縄ではいかないらしい。

 

例えば、英語は、印欧語族という大きな言語の集団のなかの一言語だ。

英語の「one two three ...」と

フランス語の「un deux trois ...」、

イタリア語の「uno due tre ...」 、

ドイツ語の「eine zwei drei...」、

スペイン語の「una dos tres ...」

を比較するといかにも兄弟のように近いとわかる。つまり一つの語族に属する。

 

ところが、日本語には兄弟がいない。親類もほとんどいないらしい。

例えば、韓国語では

hana tul seis neis tases yesse ilgop yedal ahop yel

と言って共通点がなさそうだ。

モンゴル語では

negni khoyor gurav dorov tav zurgaa doloo naim yeson arav

と言って共通点があるのかないのか全くわからない。

ということで、日本語には親類がいない、孤立語といわれているらしい。

1億2千万もの人が話す一大言語集団が他から離れた孤立語だというのも面白い。

 

そういった中で、新村出という人が1927年に「国語及び朝鮮語の数詞について」という論文のなかで、3(みっつ)、5(いつつ)、7(ななつ)、10(とお)について、高句麗語と極めて類似することを示した。

 

結論から先に言うと、

みっつ(日本語)→mi(高句麗語)

いつつ(日本語)→utsu(高句麗語)

ななつ(日本語)→nanum(高句麗語)

とお(日本語) →te(高句麗語)

となる。これはほとんど兄弟のように近い。

 

しかし、高句麗というのは西暦600年代に既に滅亡している。テープレコーダーも何もないそんな大昔の、国の言葉をどうやって復元しただろうか。

新村出さんは、朝鮮の三国史記高句麗地理志を丹念に探して次の4個の数字が入った地名の呼び方を示す文を見つけた。

三峴県一云密波兮

五谷郡一云兮次云忽

七重県一云難隠別

十谷県一云徳頓忽

上で、例えば「三峴県一云密波兮」は「三峴県 は 密波兮 と呼ぶ。」となる。

そうすると「三」を「密」と発音するとわかる。

同様に「五」は「兮」、

「七」は「難」、

「十」は「徳」だ。

このようにして、3、5、7、10の高句麗語を復元した。

ここで三国史記高句麗地理志には、数字が入った地名の呼び方を示す文は上記4個しかなかったことに注意する。

4個だけあってその4個とも日本語に極めて近い呼び方をした。

そうすると、他の数の呼び方もまた類似している可能性が強いと言える。

このようにして高句麗語が日本語の兄弟語である可能性が出てきた。

 

高句麗は自らを扶余の出目とする。

百済もまた扶余から出たとする。

また、倭はどういうわけか百済とは仲がいい。

そうして、高句麗語が日本語と近いとなると、

扶余→高句麗百済→倭 という言語の流れも想像できるような気がする。

 

新村出さんのこの仕事は1927年とかなり古いものだ。

その後、日本語の起源についてどのような進展があったか、私は把握できていない。

ネットで漁る限り顕著な進展はないように見えるが、私の探し方が足りないせいかもしれない。

 

ただ、人の遺伝子のタイプ分け(ハプログループ)から日本人の源流を探す試みがある。日本人の源流と日本語の源流は当然密接に関連する。そうした面からの研究についていずれ関連の本を読んでみたい。

高句麗好太王碑-10 好太王碑に記されていないもの

好太王碑に記載がある最後の戦いは西暦410年の東扶余の制圧だ。

東扶余はもとは高句麗の始祖である鄒牟王の属民だったが、叛いたから討った、とある。

随分古いことを持出す。東扶余から見れば言いがかりと言える。

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好太王自ら軍を率いたから、好太王にとって重要性が高かった。

高句麗は北扶余の出目だとしている。従ってどの部分であろうと扶余の制圧は故郷に錦を飾るようなものかもしれない。

帰途に王を慕って従うものが多かった、とある。

 

以上で、好太王碑に記載されている王の戦歴は終わる。

 

実は、碑に記載がないが、好太王は、春秋戦国時代の燕の地を支配する慕容氏の後燕とも戦っていて、遼東半島を奪ったらしい。

ところがその記事は好太王碑にはない。

なぜ、ないか?

後燕高句麗から見ると、中華を支配する帝国であって、歴史上の立場としては高句麗朝貢するべき対象だった。

高句麗好太王碑が記す世界観は、徳のある高句麗の王がその徳により周辺の蛮族を教化し従わせるものだった。

従って、高句麗王よりも目上の存在である後燕は邪魔者であり、碑に記載してはならないものだった。

以上の理由により、後燕については一切碑に記載がない。

 

これを、学者は高句麗の「小中華思想」と呼ぶ。

 

ご存じのとおり「中華思想」というのは、徳のある中国の皇帝がその徳により周辺の蛮族を感化し従わせるものだった。

高句麗は周辺の蛮族だったが「中華思想」を都合よく受け容れて「中国の皇帝」を「高句麗王」に置き替えてしまった。これが「小中華思想」だ。

 

小中華思想」は別に高句麗だけのものではない。

おそらく、東夷と呼ばれる国々のほとんどが「小中華思想」にかぶれていたと思う。

百済新羅もそれぞれ「小中華思想」を抱いてお互いに相手を見下していたと思う。

日本もまた同様だ。

日本書紀には、高句麗新羅百済が「朝貢した」との記事がある。

それは日本側がそう解釈しただけであり、相手側は日本を教化するつもりだったろう。

おそらく、一方で戦いながら他方で倭を含めて4国はお互いに使節を交換していた。そうしてお互いに相手の使節が「朝貢」してきたと言い合っていたと思う。

 

そういう「小中華思想」の立場からは、中国は不都合な存在だ。

日本でいえば、天皇が唯一絶対の存在であり、その天皇使節が中国に朝貢するなどは「あり得ない」ことだ。

「あり得ない」事ならば無かった事とする。

そういう趣旨で、古事記日本書紀から中国への朝貢の記事が消えてしまった。

さらに、

高句麗との戦いは勝ったり負けたりだったと思うが、そうした対等の関係もまた「小中華思想」の立場からは不都合だから、古事記日本書紀の記事から消えてしまった。

 

話が飛躍し過ぎた。

高句麗の「小中華思想」に戻る。

好太王碑に中華の帝国後燕の記載はないのは、「小中華思想」の立場からは不都合だったから記載しなかった。

高句麗にとって教化すべき蛮族とは、百済であり、新羅だった。

では、倭は、高句麗にとって教化すべき蛮族だったろうか?

おそらくそうだった。

 

日本書紀に記載がある。

応神天皇のとき高句麗王(書紀では高麗王となっている。)の使いが朝貢した。

その書に「高麗の王、日本国(やまとのくに)に教ふ(おしふ)」とあったのを読んで太子の「うじのわきいらつこ」が怒ってその書を破り捨てた。

 

上記で「教ふ」というのがまさに「教化」の意味ととれる。

高句麗側は日本に「教える」つもりで使者を送った。

太子の「うじのわきいらつこ」は、漢文を読めるようになった最初の支配層かもしれない。高句麗の書を読んで、日本側からみればその「傲慢さ」にびっくりし大いに怒った。

なお、上記で「朝貢」と記載するのは日本側が勝手にそう解釈しただけであって、高句麗側は決して朝貢したつもりではない。

 

最後に、

好太王は39歳でなくなった。

西暦391年に18歳で即位したから、亡くなった年は西暦412年プラスマイナス1年と計算できる。

プラスマイナス1年を加えたのは、満年齢か数え年齢、誕生月日、死亡月日によってずれるからだ。

西暦414年に息子の長寿王が好太王碑を建立した。これは好太王碑に記載がある。

その1年前(西暦413年)、晋書に

是歲高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物  [晋書帝紀10巻安帝]

とある。

西暦413年に、高句麗倭国西南夷、銅頭大師(?)が晋に朝貢した。

 

つまり、好太王碑の時代の終了とともに倭の五王の時代へ突入する。

 

 

高句麗好太王碑-9 -百済再侵略(西暦407年)

帯方地方へ進出した倭を掃蕩してから3年後の西暦407年に、高句麗好太王はようやく軍を百済に向けた。

百済が誓いに反して倭と通じてから8年の歳月が経った。

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7年前には新羅救援のために朝鮮半島南端までの大遠征をやったし、百済を侵略するには十分な準備が必要だった。

好太王は自らは動かずに、歩兵・騎兵合わせて5万の軍を派遣した。

鎧一万余、軍資機械無数を獲得した。6城(王健群さんが脱字の数から推計)を破った。

11年前の百済侵略では58城を奪取しているから、今回の戦果はそれに比べるとかなりしょぼい。

そもそも百済の首都を落としていない。

好太王碑には都合の悪いことは記されていないが、おそらく百済側も頑強に抵抗した。

 

好太王碑に記載されている百済との戦いはここで終わる。

これを機会に、高句麗百済の戦いをまとめてみたい。

 

西暦371年、百済近肖古王の時に、高句麗が領有する平壌城を攻め落とす。戦いの最中に高句麗の故国原王が戦死した。故国原王は好太王の祖父にあたる。好太王はまだ生まれていないが、この記憶は高句麗百済への復讐心をあおったに違いない。

西暦396年、好太王百済の58城を奪う。(好太王碑記事)

西暦407年、好太王百済の6城を奪う。(好太王碑記事)

西暦427年、高句麗長寿王が首都を集安から平壌に移す。

西暦475年、高句麗長寿王が百済の首都漢城(いまのソウルか?)を陥落させる。百済が一時滅亡し、南の熊津に逃れる。

 

このように高句麗百済が争っている間に、3国のうちの最弱の新羅は南方のへき地の慶州にあってじっくり実力をつけていった。

 

高句麗好太王碑-8 -倭寇掃蕩(西暦404年)

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新羅救援の大作戦から4年程は割と平穏だったらしい。

しかし、西暦404年に倭が不法にも帯方地方に侵入した。

原文は以下だ。

十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界

ここで「不軌」という言葉が気になる。王健群さんの解釈では「法制に基づかないで事を運ぶこと。両国の正常な関係を破壊したことを指す。」とある。

ということは、倭と高句麗との間で話し合いが行われ、約束事があったことを暗示する。

現代でも、戦いの後では、必ず条約を結ぶ。それをしないといつまでも戦争状態が続くこととなって敗者だけでなく勝者にも負担が大きい。

相手の戦闘能力を100%失わせれば話は別だが、海の倭と陸の高句麗の間で互いに相手を完璧に叩き潰すことは難しい。

倭と高句麗の間の条約(約束事)がどんなものかはわからない。好太王碑にはただ「不軌」という語により条約のようなものがあった事を暗示するだけだ。

 

「帯方界」はもとの帯方郡の地帯だろう。帯方郡がどこにあったかは未だ明らかでないようだ。

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帯方地方は、90年程前から既に高句麗の領地だ。

そこに倭が侵入してきた。

百済新羅に倭が侵入するのとはわけが違う。

5年前から百済が倭と通じているとの情報はあった。しかし4年前に新羅救援の大作戦を行ったために、兵を休める必要があって、百済方面がおろそかになった。

その間隙をついて倭がいつの間にか、百済に浸透し、さらに高句麗の領土である帯方地方まで進出してきた。

 

好太王はすぐに自ら出動した。

「従平穣」とあるから平壌より出動した。既に平壌高句麗の軍事拠点が出来上がっていただろう。首都はまだ朝鮮の北端の集安だが、高句麗の拠点が徐々に南に移っている。

高句麗の首都が平壌に移るのは次の長寿王の時だ。

 

好太王碑の表現では、「倭寇」を潰敗させ無数の敵を殺した、とある。

今回の戦いはいわば侵入してきた敵を撃退することであって、戦果はあまりない。

好太王碑の記事も比較的短い。

 

好太王の怒りは百済に向けられる。それが軍事行動として実現するのは3年後だ。

 

例によって、古事記には上記のような記述はない。

三国史記百済本紀には倭と百済との友好関係を示す記事がいくつかある。

例示すると:

397年、百済王は太子を人質として倭に送った。

402年、倭の大きな珠を求めた。

403年、王は倭の使者を厚く遇した。

405年、百済王が死に、倭王は人質の太子に百人の兵士をつけて送った。

以上の記事のすべてが事実か疑問だがおおむね友好的だったと見える。

高句麗好太王碑-7 新羅救援・倭と激突(西暦400年)

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さて、高句麗好太王は西暦400年にようやく倭と戦うこととなる。

その前年に百済が誓いに反して、倭と通じた。

好太王は立腹したに違いない。しかし平壌まで巡回したに過ぎない。戦闘の準備ができていなかった。

そこへ新羅の使いが来た。「倭人新羅の地に満ちている。城池を破壊し民を屈服させている。」として王に助けを請うた。王はその忠誠をたたえ、恩慈を施し、密計を与えて使いを返した。

ここの書きっぷりでは、新羅高句麗に対して(少なくとも表面的には)従順だった。百済が反抗的だったから、好太王は余計に新羅を「愛いやつ」と思っただろう。

密計を授けて帰らせた。

 

その密計が翌西暦400年の大軍事行動だ。

ただし、この部分は好太王碑の第2面と第3面の角部にあたり碑の上部が欠けて脱字が多いから正確な文章が明らかでない。

できるだけ明らかなところだけで記載する。

 

400年に、歩兵と騎馬の高句麗軍5万を新羅城に秘密裏に向かわせた。好太王は行かない。百済の動きを警戒したのだろう。

ところで、高句麗の集安から新羅の慶州まで直線距離で670キロくらいある。

日本で言えば福岡から浜松くらいだ。

陸の道を用いれば1000キロ近いだろう。歩兵が一日10キロで進んだとして100日かかる。

どのようなルートを通っただろうか。

時代は下って、豊臣秀吉朝鮮侵略において、加藤清正軍は釜山から朝鮮半島の背骨を通ってソウルにいたり、そこから平壌に侵攻した。

おそらくその逆を行った。ただし、ソウル近辺には百済がいるから、百済に動きを知られないようにソウルは迂回したに違いない。

 

高句麗軍が来て倭(ここでは「倭賊」と記述した。)が退いた。その倭を追って「任那加羅」に至った。

初めて、高句麗が倭と激突した。

ここで「任那加羅」が出てくる。任那加羅朝鮮半島最南端にある。そこまで高句麗軍が進出したことになる。

ここでの倭は陸路で退いたことになるだろうか、よくわからない。

王健群さんの釈文では「自倭背急追至任那加羅」とあって、倭の背中を急追して任那加羅に至った、と読めそうだから、陸路かもしれない。

倭は海の戦いに強みがある。高句麗は陸の戦いに強い。高句麗が、倭の海への退路を断つなどの策略を用いて陸の戦いに持ち込んだのかもしれない。

城を抜いて、羅人(新羅人)の駐屯兵に守らせた(「安羅人戌兵」)。

羅人は新羅人の事だ。守らせたは「安」の字を使う。

以下、碑文には城を抜く度に「安羅人戌兵」が出てくる。計3回出る。

「安羅人戌兵」を安羅という国の人が高句麗に逆襲したと解釈する説もあるけれど、それでは3回も安羅人が出てきて大活躍することになる。好太王碑の記載としてはふさわしくないと思う。

王健群さんの解釈が自然だ。

ともかく、新羅救援の軍事行動では、高句麗軍は倭に「占領」された城を取り返しては新羅人に守らせた。

高句麗軍は自分のものとしなかった。

ここはできなかったと解釈する方が自然だ。

抜いた城を自分のものとするなら、治安のためにそれらの城に軍を残さねばならない。高句麗軍が5万といえども、それぞれの城に軍の一部を残すと高句麗軍の力が弱まる。

また、好太王碑では高句麗軍が100%主導して軍事行動を起こしたように記述するけれど、実際は新羅軍との共同作戦だった。先の5万というのも、新羅軍を臣下として加えた結果の5万だったかもしれない。

城を抜いたあとは、新羅軍がその城を守る。

新羅の王を「寐錦」と記載する。これも蔑称らしい。

「寐錦」がこれを機に朝貢した、という記述で終わる。

 

ところで、高句麗は倭を追い出しては新羅に与えている。

随分気のいい話と見える。

ここは、高句麗百済新羅、倭の4国関係でみるとわかりやすい。

おそらく、高句麗新羅を見下してはいたが同盟相手とみなしていた。

そうして、高句麗百済を攻める時は新羅にも百済を攻めさせただろう。

新羅にとっては、当時はまだ上記4国のうちの最弱だった。そこで悔しい事ではあるが、高句麗と結んで生き残ろうとした。

日本で言えば、織田信長徳川家康の関係に近かった。

浅井・朝倉との姉川の戦いでは徳川が織田に加勢した。

後に武田氏が徳川領の長篠に攻め込んだ時には、織田が加勢して撃退した。

このように、多国間で戦いがある時代には、どこかと同盟する必要があった。

そうして同盟を維持するためには、同盟相手に何かを与えなければならない。

 

日本書紀継体天皇のとき大友金村が任那4県を百済に割譲したとある。

これもまた、同盟関係を維持するためにやったことだろう。

なお、任那4県割譲の記事は古事記には記載がない。

 

以上が西暦400年の高句麗と倭の戦いだ。

 

古事記では、西暦400年は仁徳天皇の治世の時代だ。

高句麗との戦いの記載は全くない。

古事記には、そもそも外交関係の記事はほとんど見当たらない。

これはどういうことだろうか?

今のところ?(question mark) のままにする。

 

朝鮮の三国史記新羅本紀には、

393年倭人が来て金城を5日包囲した。

402年倭国に王の子を人質として差出した。

405年倭兵が明活城を攻める。

407年春に倭人が東辺を攻め、夏に南辺を攻める。

408年新羅王が倭の本拠の対馬を攻めようとしたが家臣に諫められて止めた。

といった記事がある。

こうした記事をみると、倭は新羅をかなり侵略していたようだ。

新羅は、基本的には高句麗と同盟して倭に対抗しようとしたが、場合によっては存続のために倭に屈することもあった。

 

こうした侵略を行ってきた倭とは誰だろうか?

どうもやまと朝廷自体ではないように見える。

九州一帯の島々に住む豪族だったかもしれない。