わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

 7月16日の記事に、少し訂正したい。

 7月16日の記事に、少し訂正したい。

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 Wikipedia帯方郡」に、「『帯水、西して帯方に至り海に入る』と漢書地理志にある」というのをそのまま引用した。

しかし、ちょっと不安になったから、実際に漢書地理志にあたってみた。

そうしたら、『帯水、西して帯方に至り海に入る』という文章がない(??)。

『帯水』という言葉も検索にかからない。

また、上記記事で大同江に比定した『列水』という言葉も検索でみつからない。

 

ということで、少し困っている。

 

私が見ている漢書地理志は中文Wikipedia に掲載されている原文だ。

それ以外にも漢書地理志の別版があるかもしれない。例えば、後世の註が加えられた版があるかもしれない。

ネットで調べると、『帯水、西して帯方に至り海に入る』という文を根拠にいろいろ議論している記事が散見されるから、この文はどこかに存在するに違いない。ただ、ネットのこうした記事で原文資料の所在を明らかにしているものがなかった。

つまり、Reference(参考文献)を私が探し切れていない。

 

科学技術の研究開発をやってきた私としては、Reference(参考文献)を整備する事は常識中の常識のはずだったが、今回ちょっと早とちりしてしまった。

反省している。

と同時に、まあゆっくりと問題の資料がみつかるのを待つこととする。

台湾から与那国島へ丸木舟で漕ぎ渡った。2019年7月7日-9日

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2019年7月7日から9日にかけて、丸木舟で、台湾から与那国島まで漕ぎ渡った。

というニュースがあった。[1]

[1]  http://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/

漕いだ距離は225km、時間は45時間10分だから時速5kmだ。

丸木舟は5人乗りの小さなものだ。

台湾烏石鼻(どう発音するのだろう?)から与那国島の方向へひたすら漕いだ。途中で休むと黒潮に流されて位置がわからなくなるから漕ぎ続けた。

3万年前の人間と同様に、コンパスもなく、時計もなく、ましてGPSもスマホもないから、ただ太陽と星で方向を見定めて、その方向へ漕いだ。

与那国島は見えない。つまり目標が見えない大海原をひたすら方向を見定めて切り裂いていく。

夜は、ともかく北極星が見えるなら方向を定められる。

昼間は時計もなく太陽の位置だけから方向を定められるだろうか?

まず、午前か午後かくらいはあらかじめわかるだろう。ただそれも12時の太陽の高さを頭に記憶しておく必要はある。

次に、12時の太陽の高さと、現在の高さと比較することで時刻を大体推量し、方向を決めたと思う。

しかし、7月7日は夏至の直後で12時の太陽はほとんど真上だ。この時だけは方向を決めるのが難しい。実際この時間は苦労したようだ。

58km位の距離に近づけば与那国島が見えだす。ここまでくれば一安心となる。

実際は、その前に島からの上昇気流が作る雲を見つける事でその下の島の存在がわかる。

こうして、45時間225kmを漕ぎ切る事に成功した。

映像では、丸木舟を漕ぎ切った5人は本当に疲労困憊・憔悴していた。とても成功を喜ぶ余力はなかったようにみえる。

 

しかし、これは快挙だ。

225kmもの長い距離を、なんの目印もない大海原を、丸木舟だけで、目的地へ漕ぎ着くことができる事を実証した。

 

以上は、上野にある国立科学博物館のプロジェクトであって、沖縄諸島で見つかる3万年前の古代人が南方系であるからきっと台湾から沖縄へやってきたに違いない、ではそれを実証しようというものだ。

最初は茎がストローみたいに空洞のある草をたばねた草舟でトライしたが、草が水を吸って重くなって失敗した。

この時、台湾・与那国島の間の黒潮の流れが秒速1m、時速で4kmと強烈なため、黒潮を真横に横断する最短コースが難しいとわかったようだ。そこで今回台湾のかなり南の烏石鼻から出発して黒潮に乗っかることにしたに違いない。

2度目は、竹を束ねた竹舟でトライしたがこれもダメだったようだ。竹ではすき間から水がはいってくるから舟が沈んでしまうだろう。かといって筏みたいにすると漕ぐのが難しい。

3度目の正直が丸木舟だ。丸木舟は一木彫だから海水が浸みこむ事がない。しかも軽いから速度が出る。

このプロジェクトでは、石斧と木と縄と火で木の切り倒しから丸木舟の表面処理まで皆やったらしい。

 

以上3万年前を再現した実験だ。

 

 外洋航海において丸木舟を超える舟はなかなか現れなかった。

数千年前の、縄文時代を想定して、丸木舟で隠岐から島根まで黒曜石を運んだ学校の先生方がいた。

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この時は56kmを12時間43分だから時速4.4kmだ。日中に一気に渡海した。

 

西暦240年頃、卑弥呼の時代も、倭人は丸木舟を使って、渡海し、朝鮮半島と交易していたようだ。  

丸木舟では馬は載せられない。だから、日本に馬はまだ入ってこない。魏志倭人伝でも倭に馬・牛はいないという。どちらも丸木舟には乗らない。

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朝鮮半島から北九州に至るには、朝鮮半島対馬間、対馬壱岐間、壱岐と北九州間という3つの海を渡らねばならなかった。すべて目的地が見える日中の12時間くらいに一気に渡る。

12時間ぐらい漕ぎ続けて一つ海を渡ると、しばらく休養もかねて良い天候と潮時を待つ。天候と潮時が合致すれば、次の海をまた一気に渡る。その繰り返しだ。

ともかく、朝鮮半島と北九州の間に、対馬壱岐の2島が飛び石のようにあったおかげで日中の目的地が見える間に渡海ができて、交易ができたと言える。

ここで対馬海流の存在が気になる。3つの渡海をするうえで対馬海流に流される事はないだろうか?

そこで気象庁のHPを見た[2]。

[2] 

https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/data/db/kaikyo/daily/current_HQ.html

どうやら対馬海流は秒速0.3m、時速1kmくらいのようだ。それならば時速4-5kmで漕げばなんとか克服できそうだ。

 

さて、 同じ頃、中国では、どうやら丸木舟から一歩進んで、何枚もの板を矧いで作る凖構造船・構造船ができていた。特に呉の国では、そうした舟で魏の海岸線を侵略したり、馬を載せて呉に運び込んだり、台湾まで遠征できたようだ。

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中国の造船技術はいずれ日本に伝わる。

応神天皇の頃(西暦390年頃)には日本でも大きな船ができて、朝鮮半島から馬を輸入する事ができるようになった。

帯方郡本部(郡治)はどこにあったか?

楽浪郡の本部(郡治)がピョンヤンにあったことはほぼ確定している。
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では帯方郡はどうだろうか?

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まず帯方郡楽浪郡の南部を郡に格上げしたものだから、楽浪郡の南にある。実際、漢書地理志に楽浪郡の中の一つの県として「帯方」の名が出てくる。

しかし、所在地はまだ確定していないらしい。

Wikipedia  「帯方郡」を見て、上の地図に4カ所の可能性を示した。

南方説として、漢江沿いの

1.ソウル

2.広州

があり、

北方説として、大同江の小さな支流沿いに位置する

3.鳳山

4.安岳

があるらしい。

南方説の根拠は漢書地理志に「帯水、西して帯方に至り海に入る」とある「帯水」が漢江とする。ピョンヤンを通る大同江はすでに「列水」と記述されているから、その南方の大きな川は漢江しかない、という。

ただソウルにも広州にもそれらしい考古学的遺跡がないらしい。

それに対して、北方説の鳳山や安岳には遺跡が豊富らしい。特に鳳山からは「帯方太守 張撫夷塼」とある墓がみつかっているらしい。北方説の場合には、大同江の小さな支流を「帯水」とするのだろうか?

以上、日本語Wikipedia帯方郡」の記事からとった。

ハングルWikipedia では、私はハングル文字が読めないから理解できないが、地図があって、鳳山付近を帯方郡の本部(郡治)所在地とする。

中文Wikipediaでは、日本語Wikipediaと同様に4カ所をあげているようだ。

というわけで、「帯方郡」がどこにあるかは詳しくはわからない。

 

海洋民族であり、もっぱら舟で交易をしていた倭人にとっては、帯方郡がソウル近傍にあれば随分便利になったに違いない。わざわざ寒いピョンヤンまで北上する必要がないからだ。一段と帯方郡に出入りすることが多くなったと想像する。

逆に大同江の小さな支流沿いの鳳山や安岳に帯方郡があったとしたらどうだろうか?

舟に乗る者の立場からすればそんな不便な所に行きたくないだろう。鳳山や安岳へ行く川は所々10メートルにもみたない狭いものだ。それよりも大同江沿いの楽浪郡に出入りするだろう。楽浪郡の方が舟の便利がいい。

魏志倭人伝を読むと、帯方太守が倭人と係わっている。

そういう風景からは南方説の方が都合がいいけれど、事実は、どうだろうか?

楽浪郡がピョンヤン近郊にあった証拠は?

古代日本に関する文字記録はほとんどが中国史書であり、そこでは倭人は中国領の東端にある楽浪(+帯方)の海中に居る。

そこで、楽浪がどこにあるかが問題となる。

本やネットで調べると楽浪郡の本部(郡治)はピョンヤン市にあったと記されている。

それをそのまま鵜呑みにしてもいいのだが、一応科学的に検討して自分で納得したいから調べた。

1)墓からみつかった木簡[1]

[1] 岩波新書「木簡から古代がみえる」の第4章「東アジアの木簡文化」(李成市著)

平壌市西南、「楽浪区域統一街」の建設現場の貞柏洞(チェンベクトン)364号墳から木簡がみつかった。(当時、まだ紙はなく木の板に文字を書いた。それを木簡という。)

そこにはなんと「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とある。

初元四年とは紀元前45年だから前漢の時代だ。そうして、当時楽浪郡は25県から構成されている(漢書地理志楽浪郡に25の県名が記載されている)が、その25県の戸数と人口が記載されているという。

総計で25県の初元4年(紀元前45年)の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人だったとの事だ。

前漢の時代には毎年戸数と人口を調査したらしい。このような調査の記録は中国にも残っていない。

なお、これらの木簡は1990年代初めに見つかったらしい。当然発見したのは北朝鮮の学者だ。しかし正式な報告書はなく、写真だけが2008年に公開された。李成市さんか他の誰かがそれを読み解いたのだろう。

以上、楽浪郡を構成する25県のすべての戸数・人口が記されているという事は発見場所に楽浪郡の本部(郡治)があった事を示す。

ピョンヤン楽浪郡本部(郡治)があった。

 

と、ここで終わってしまってもかまわないけれど、上記にはいろいろな情報が詰まっていて面白いから続ける。

2)楽浪郡の人口変化

まず、木簡記録にも25県とあるらしいから漢書地理志の25県と整合する。

総戸数・総人口について、漢書地理志、後漢書地理志、晋書地理志と共に記載する。

木簡記録   初元4年(紀元前45年)  4万3251戸    28万0361人

漢書地理志  元始2年(西暦2年)    6万2812戸    40万6748人

後漢書地理志 安帝?(西暦107-125)   6万1492戸    25万7050人

晋書地理志  太康元年(西暦280)    8600戸(楽浪+帯方) ? 

木簡記録の頃(紀元前45年)から約50年は政治が安定していて人口も増えたようだ。自然増か人の移動によるかはわからない。後漢の後半になるとちょっと陰りが出てきて楽浪の人口も減っていった。公孫氏の支配下で楽浪の一部が分離されて帯方郡となった。後漢末期からの政治の不安定のため晋の頃の支配下の戸数は楽浪郡帯方郡合計しても8600戸にまで減ってしまった。晋書には戸数のみ記載があり人口は記載がない。

なお晋書の記載する戸数は、晋が支配する戸数であって、支配が及ばないいわゆる「無法者」の方が大多数を占めていたと思う。

3)楽浪郡は中国の一部だった

前漢の時代に、中国全土で毎年戸数・人口調査、つまり毎年国勢調査を行っていたらしい。これは大変な事だ。今でも、中国の国勢調査は10年に一度だ。日本では4年に一度だ。ところが2000年くらい前の前漢の時代に毎年国勢調査がなされていたという事実に驚く。国勢調査をするのは当然ながら役人=官僚だ。税金は国勢調査の結果をふまえて決めていただろう。

このような官僚が統治する国家と、司馬遷史記が記述する前漢創始者劉邦という人物像とはどうしても結びつかない。

それはともかく、前漢とは儒教学者が官僚として人民を支配する国家であり、楽浪郡もその一部だった。

そうして、楽浪郡の役人も字を書き読むことができるエリートであり、毎年県から上がってくる戸数・人口の報告を受けて集計し(計算もできなければならない。算盤はあっただろうか?)、木簡に記録しただろう。

それは、地方の小役人にとってはエリートの仕事であり、自らの存在の証として墓にまでそれらの木簡を持ち込むよう指示したに違いない。

今、役所の書類をお墓に持込むような人間はいない。

そのようにして楽浪という辺境の小役人の墓に木簡が残され、歴史の証拠となった。

4)北朝鮮楽浪郡を認めるか?

これからは現代の話だ。

Wikipedia楽浪郡」の記載を見ると、どうも北朝鮮の学者は、朝鮮半島の一部でも中国の支配下にあったのが我慢ならないようだ。

私などは、朝鮮が中国に飲み込まれなかったことに感心する。それどころか、高句麗新羅がよくもまあ圧倒的に強大な中国の支配を押し返して独立できた、という点を誇っていいのではないだろうか。

ともかく、彼らは楽浪郡朝鮮半島の外にあり、ピョンヤンにあったのは「楽浪国」という別のものだったと主張しているらしい。

そうした主張に対し、上記木簡などは実に不都合な反証となる。

1990年代に木簡が発見されてから正式の報告書が出てこない理由はその辺にあるかもしれない。

ただ、2008年に写真が公開されたという事から、北朝鮮の学者としての良心を感じる。

グーグルマップで「楽浪区域」と入力すると、ピョンヤン市街を流れる大同江南岸地域が行政区として表示される。つまり国として「楽浪」がピョンヤンにあった事は認めている。

ちなみに「楽浪区域統一街」は、よく北朝鮮を紹介するテレビに出てくる高層住宅の立ち並ぶいわば北朝鮮のショーウィンドウのような場所らしい。

 

 

すてきな日本語

昨日、津田沼丸善で「すてきな日本語」というちょっと「すてきな」冊子をもらったから、忘備録として記す。

そこで、担当の方二人がたぶん個人的な趣味で40冊の本を選んでいる。

 

「”すてきな日本語”が読める作品を集めてみました。」と記されている。

 

冊子の内容は以下のブログにある。

https://dokushobi.exblog.jp/239336935/

 

 それを見て読みたくなった本は

1.「ボタニカル・ライフ」いとうせいこう

2.「魔術から数学へ」森毅

読んだ記憶のある本は10冊くらい。

 

帯方郡から邪馬台国への所要日数

中公新書「日本史の論点ー邪馬台国から象徴天皇制まで」(2018年)という本がかなり読まれているようで、最近ようやく市図書館から順番待ちで借りる事ができた。

その第1章論点1でいきなり著者が

「水行十日陸行一月」 は帯方郡から邪馬台国までの日数、

「水行二十日」    は帯方郡から投馬国までの日数(以上19ページ)

を私案として述べている。

こういう説は初めて聞いた。

そこで、魏志倭人伝の時代の、帯方郡から北九州までの所要日数を改めて考察する。

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まず、魏志倭人伝から、行程の部分だけを抜書きする。三国志からそのまま抜書きなので旧漢字の羅列なのを容赦してほしい。;

1.從至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
2.始度一海千餘里至對馬國
3.又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
4.又渡一海千餘里至末盧國
5.東南陸行五百里到伊都國
6.東南至奴國百里
7.東行至不彌國百里
8.南至投馬國水行二十日
9.南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
10.自至女王國萬二千餘里

普通の解釈では、不彌國から投馬國が「水行二十日」で、投馬國から邪馬壹國が「水行十日陸行一月」だ。

上記に出てくる「郡」は帯方郡だ。帯方郡は実はどこにあったかわかっていない。しかし楽浪郡ピョンヤン近くだとほぼ決定している。帯方郡はその南だとしてまあソウル近辺と仮にしておく。

Googleマップの距離の測定を使って、ソウルの外港である仁川から釜山まで沿岸を船で行き、その後3つの海を渡って北九州に着くまで、総計で1070kmになった。

当時の船で一日にどのくらい進めるだろうか?

まず昼間で目的地が見えないと進めない。

錨などで海上に船を止める技術は当時あったかどうか怪しいから、夜は必ず港に入る。

風力もある程度使えただろうが、近代のような航海術はまだないだろうから、主として櫂や艪を使う人力に頼る。

干潮満潮つまり潮の満ち引きに注意しなければならない。例えば潮が満ちてくる時に出航すると逆潮になってほとんど進めない。

実は角川春樹さんが野生号Iという四世紀頃の埴輪にある船を再現させて仁川から北九州まで漕ぎ渡っている。1975年の事だ。[1]

 [1] 角川春樹「わが心のヤマタイ国」(1975, 1978文庫本)

その本によると6月20日から8月5日まで47日かかっている。著者は一日20kmの予定でいたようだ。そして予定が未達になりそうだと他の船に曳航してもらったらしい。著者自身も単独航行なら100日以上かかると言う。

以上より、帯方郡から邪馬台国・投馬国まで「水行十日陸行一月」・「水行二十日」で行けるとは思えない。

上記私案は現実的でないようだ。

 1日だけなら、丸木舟で日本海を渡った先生のように1日55kmを漕ぎ切ることができるかもしれない。実際朝鮮半島から北九州までは、そうした漕ぎ方をする必要があった。しかしそれを20日も続けられない。

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 最後に「唐六典」(唐時代の百科事典)の記事を紹介する。

「馬は日に70里、歩及び驢(驢馬)は50里、車は30里、」

「重船の流れを遡るには河(黄河)は日に30里、江(揚子江)は40里、その他45里」

「空船河40里、江50里、余水60里」

「重船、空船流れに従う河150里、江100里、余水70里 とせよ」

上は距離を日数から決める決め方だ。1里は400mとすると、1日歩いたら50里つまり20kmとする。馬に乗っても1日28kmだ。

黄河で積み荷の重い船を遡ると1日12kmだ。逆に黄河を下るときには1日60kmだ。揚子江では川の流れが緩いから遡るときは16km、下るときは40kmだ。

空船でその他の川では上り1日24km、下り1日28kmだ。

以上はみな川での話だ。海では距離の測りようがないから上にはない。

しかしまあ、川での類推から、静かな海では(そんな海はほとんどないけれど)1日20-30km進めると考えられる。

 

以上よりまとめると、1日20kmで休みなく漕ぎ進むと53日くらいで帯方郡から北九州に到着できるけれど、実際は休みを取らねばならないし、潮の流れを見計らう必要があるし、天候によっては出航を控える事もあるから、53日の最低2倍はかかる。

つまり帯方郡まで3-4カ月だ。そこからさらに遼東半島山東半島を経て、黄河または陸路で洛陽に着くにはプラス3-4カ月かかりそうだ。

トータルで、北九州から魏の都洛陽まで、早くて半年下手すれば1年近くかかるかもしれない。

郡・国名の重複ー後漢書地理志の場合

前回、三国志東夷列伝(魏志倭人伝含む)と漢書地理志における国名の重複について紹介した。 

その結論は、上記史書には国名の重複が存在する。

例えば魏志倭人伝では「奴国」が重複する。

その重複は、単なる間違いとは思えない。何らかの意図があるように見える。

ただ、その意図については理解しがたい。想像もできないし、完全にわからない。

漢書地理志まで議論したから、後漢書地理志について紹介しないのは片手落ちだろう、

ということで、今回後漢書地理志郡国について調べた。

というと、簡単にパッパッパとやったようにとらえられるかもしれないが、これがかなり大変だった。後漢書地理志郡国が第一から第五まで5篇もあるのだ。その長大な文章の中に百個以上の郡と国の名前と対応する人口の記述を取出してエクセルの表にするのだ。

一体私は何を馬鹿なことをやっているのかと自問自答しながらの苦痛の5時間だった。

 

そうして得られた結論は:

後漢書地理志郡国では郡・国名の重複はなかった。

後漢書地理志郡国には105の郡と国の名が記載されていた。

その105の中に重複はなかった。重複の有無はエクセルで名前の順に並べ替えをして確かめた。

後漢書地理志郡国の結論に 凡郡国百五 とあるから上記105と一致した。

ということで後漢書地理志郡国では重複はなかった。

 

それ程面白くはさせてくれなかった。

 

せっかく後漢書地理志の郡国の一覧表を作ったからここに紹介する。

人口の記載のない郡国も多い。

遼東の人口の数字は一つ前の遼西と全く同じで書き間違えだ。

ただ遼東の戸数は遼西の4-5倍だから人口も4-5倍だと想像できる。

漢字は簡略字になっている。

1 司隶 1010827  
2 河内郡 801558  
3 河东郡 570803  
4 弘农郡 199113  
5 京兆尹 285574  
6 左冯翊 145574  
7 右扶风 93091  
8 颍川郡 1436513  
9 汝南郡 2100788  
10 梁国秦砀郡 431283  
11 沛国秦泗水郡 251393  
12 陈国 1547572  
13 鲁国秦薛郡 411590  
14 魏郡 695606  
15 钜鹿郡 602096  
16 常山国 631184  
17 中山国 658195  
18 安平国故信都 655118  
19 河间国 634421  
20 清河国 760418  
21 赵国秦邯郸郡 188381  
22 勃海 1106500  
23 陈留郡 869433  
24 东郡秦 603393  
25 东平国故梁 448270  
26 任城国 194156  
27 泰山郡 437317  
28 济北国 235897  
29 山阳郡故梁 606091  
30 济阴郡故梁 657554  
31 东海郡 706416  
32 琅邪国 570967  
33 彭城国 493027  
34 广陵郡 410190  
35 下邳国 611083  
36 济南  453308  
37 平原 1002658  
38 乐安 424075  
39 北海 853604  
40 东莱 484393  
41 齐国 491765  
42 南阳 2439618  
43 南郡  747604  
44 江夏 265464  
45 零陵  1001578  
46 桂阳  551403  
47 武陵  250913  
48 长沙 1051372  
49 九江 432426  
50 丹阳 630545  
51 庐江 424683  
52 会稽  481196  
53 吴郡 700782  
54 豫章 1668904  
55 汉中  260742  
56 巴郡  1086049  
57 广汉  509438  
58 蜀郡  1350476  
59 犍为  411378  
60 牂牁  267253  
61 越巂  623417  
62 益州  110802  
63 永昌  1897344  
64 广汉属国  205652  
65 蜀郡属国  475629  
66 犍为属国 37187  
67 陇西  29637  
68 汉阳  130138  
69 武都  81728  
70 金城  18947  
71 安定  29060  
72 北地  18637  
73 武威  34226  
74 张掖  26040  
75 酒泉    ?
76 敦煌  29170  
77 张掖属国  16952  
78 张掖居延属国 4733  
79 上党  127403  
80 太原  200124  
81 上郡  28599  
82 西河  20838  
83 五原  22957  
84 云中  26430  
85 定襄  13571  
86 雁门  249000  
87 朔方 7843  
88 涿郡  633754  
89 广阳  280600  
90 代郡  126188  
91 上谷  51204  
92 渔阳  435740  
93 右北平  53475  
94 辽西  81714 戸14150
95 辽东  81714 戸64158
96 玄菟  43163  
97 乐浪  257050  
98 辽东属国   ?
99 南海  250282  
100 苍梧  466975  
101 郁林    ?
102 合浦  86617  
103 交趾    ?
104 九真  209894  
105 日南 100676  
    47928129  
       
  凡郡、国百五    
  口四千九百一十五万二百二十 49150220